書物の庭|戸田勝久


31|ヤン・マンクスを巡る旅


“JAN MANKES Mooie Dingen Zijn Zoo Eenvoudig”
『ヤン・マンクス 美しいものはシンプルだ』
Museum Arnhem, Museum Belvédère, 2025, 27.5x22.5cm,191pp

これは以前「書物の庭 28」に書いた20世紀初頭のオランダ人画家ヤン・マンクス(1889〜1920)の2025年開催の展覧会図録。

マンクスが青年時代を過ごし、伴侶を得たオランダ北部フリースラント州のデ・クニペ村近くにあるベルフェデール美術館と彼の終の住処ヘルダーラント州のエールベーク村に近いアーネム美術館の2館で2025年1月から6月まで過去最大規模の「ヤン・マンクス展」の開催に合わせて約20年の準備を経て出版された彼の画業を集大成する決定版カタログだ。

「秋の森のモルモット」1918〜1919
マンクス最後の油彩画、この後病気療養しながら版画制作に励んだ、彼の遺言には「この作品は破棄するべし」とあった
巻末には現在の最新の研究結果で得られた詳細なデータを記した「カタログ・レゾネ」年代別総作品図録がある、油彩、版画、下絵、デッサンなどを含めて総数467点が登録されており、レゾネ最後の作品は1918年に生まれた最愛の息子べイントのデッサン

オランダ中部と北部、遠く離れた2館の美術館の出版、今後のマンクス研究の基礎資料となるだろう



この2025年の「ヤン・マンクス大展覧会」に行かなければ、一生マンクス作品を実際に観ることは叶わないだろうと思い、3月末に関空からアムステルダム行きのKLM機に乗り込み、初めてオランダの地に立ち、冷んやりとした春の空気を吸い込んだ。

展覧会が開催されている離れた2ヶ所の美術館をどう廻るか、列車とバスの時刻表を眺めて悩みながら旅程を考えて来た。

この2ヶ所以外に展覧会に参加していないマンクス作品を所蔵するMORE 美術館があり、事前に問い合わせたところ、貸し出した残りの所蔵作品は現在館内に展示されているとの事で、まずはマンクス展の会場では無く違う美術館へ落穂拾いに向かった。

アムステルダムから東に向かって列車とバスで約2時間、長閑な田舎のゴルセル村に到着。
古い館に新館を増設した立派な美術館Museum MOREが、バス停を降りたすぐ近くにあった。

入口の古い館はカフェになっており賑わっている

展覧会に貸し出されず、こちらに残された7点のマンクスの油彩画

代表作の「衝立の上のフクロウ」1909年
これがなぜ今回の大展覧会に貸し出され無かったのか不思議だ

初めて接した彼のオリジナル作品は、小さな画面に繊細な描写と美しい絵肌で、その技術の確かさと画家の慎重な制作態度を見る事ができた

持参の虫眼鏡で細部を観察した、これは美術館係員による写真、当日は待ち構えていた係員からなぜ遠い日本から来たのか? とさまざまインタビューを受けた
透明な油絵具を薄く塗り重ねた繊細な色彩の作品、小さな日本人形が描かれている

マンクスは沢山の動物を飼っており、それらの生命が絶えた後の姿も多く描いている、爪先の厳しく鋭い描写が美しい、17世紀にオランダで発祥した静物画 ”still-leven”の伝統を継いでいる


Museum MOREのゴルセル村からバスと列車で1時間程南にあるオランダ東部の町アーネム。第二次世界大戦中のドイツ軍とイギリス軍の戦いを描いた映画「遠すぎた橋」で知られている。

今回のヤン・マンクス展の会場の一つ、アーネム駅近くの丘の上に建つMuseum Arnhem。古い館に新館を増築した美術館。

入口の古い館はカフェになっており庭園のテラスに続いている

展覧会導入部のマンクスの年譜

広い会場に小振りな作品が並んでいる

「フクロウを持つ自画像」1911年
マンクスは10年間の画家生活の間に28点もの自画像を描いている、これは彼が22歳の作品

「水指に入ったアスター」1912年
バックのビリジアングリーンが特徴的

「水指に入ったルリアナ」1915年
オランダ絵画の伝統を受け継いだ暗いバックの静物画

「若い白山羊」1914~15年
オランダで一番有名な山羊と言われるほど良く知られた作品、マンクスにしては大作でサイズは49.5×59.5cm

「アトリエからの眺め」1917年
結核療養のために海浜地デン・ハーグから移り住んだ内陸の村エールベークの家の元温室のガラス張りのアトリエから描いた冬景色、最晩年の作品、この風景は今もそのまま残っている

「光が当たった油瓶」1909年
画業の初期段階20歳の頃に描かれたが、明確なビジョンを美しく画面に定着させてその日の光を封じ込めた名作、抑制された色彩構成と薄塗りの油彩の微妙なトーンの変化が見事だ

「枝に止まるチョウゲンボウ」1911年
17.5×17cmの板に描かれた小さな絵だが、考え抜かれた構図は寸分の隙もなく、落ち着いたベージュ系の色彩と筆致は宋元の墨画を思わせる

「花咲く月夜の風景」1914年5月~6月
具象とも言い難い色彩の斑点の乱舞、蕪村の名句「菜の花や月は東に日は西に」が浮かんできた
マンクスはレンブラントのように版画家でもあった、石版、銅版、木版をこなした

19世紀フランスの名高い版画家ロドルフ・ブレダンを彷彿とさせる細密に描き込まれた完成度が高い銅版画


アーネムから列車で2時間30分の北の街ヘーレンフェーン。かつての王様の「オランニュの森」がある事で知られている。ここにマンクス展第二会場のMuseum Belvédère がある。
この美術館近くのデ・クニペ村でマンクスは青年時代を過ごし絵を描き、良き伴侶と巡り合っている。なので、ベルフェデール美術館ではこの地域を題材に描かれた彼の作品を主に集めて展示されている。

運河を跨いだ橋のような美術館

「林檎の花」1914年
深淵な色彩のバックに浮かび上がる白い花、背景に溶け込んでいるガラスコップ
「白い馬」1917年、43×60xm
マンクスには珍しく大きな絵、アトリエ近くの泥炭運搬用の馬を描いたと言う、病気で体力が落ちていく中で油彩画の制作が難しくなる時期の作品
「並木道」1915年2月20日
私がインターネット上でマンクスを知るきっかけになった作品、デ・クニペ村の自宅近くの散歩道を描いている、念願叶いようやく実物を観る事ができた
オークの並木を散歩する二人は、マンクスと妻アニーに見える

マンクス作品には南洋の銘木を使って美しい木肌を見せるオランダ絵画伝統の額がつけられている、これはブラジルのローズウッド「ハカランダ」、17世紀以来の貿易でオランダには世界各地の名木が集積していた

ようやく実見できたヤン・マンクスの作品は、予想どおり素晴らしいものだった。
1909年頃から僅か10年あまりの画家としての活動で467点の絵を残して30歳でこの世を去ったヤン・マンクス。

1914年第一次世界大戦が始まり、美術界では抽象絵画の波が起こる中、冷静に自らの欲するままにオランダ絵画の伝統に基づき制作した強い意志を感じる作品群だった。
作品の画面に残された異常に繊細で厳しいタッチと複雑に重ねられた色彩が強く心に響いた。

もし、これらの作品の横にフェルメールやレンブラントの作品が飾られてもびくともしない存在感を発するだろう。

彼の絵は、時代を超えていつまでも古くならないマスターピースに見えた。

「美しいものはシンプルだ」とのマンクスの言葉は美術に於ける普遍的な真理を言い当て、作品にそれを反映させた画家人生だった。

沢山の彼の作品に出会えて一生忘れ難い幸せな旅が出来た。


美術館巡りの途上に「聖地巡礼」のようにヤン・マンクスが住んでいた場所に行き、彼が暮らした土地や建物を見て来た。

Delft 〜1909年
1─父の勤務地デルフトで少年時代を過ごし、当地のプリンセンホフのステンドグラス工房の下絵描きとして仕事を始める。当時の家は残っていないがこの写真の辺りに住んでいた

ステンドグラス工房があったプリンセンホフ、今は博物館

De Knipe 1909〜14年
2─退職した父が家族と共にデルフトから戻って来た故郷デ・クニペ村、ここで伴侶となるオランダ初の女性牧師アニー・ゼルニケと出会う

Den Hagg 1914〜16年
3─デ・クニペ村で結婚後、しばらくして画商とパトロンが住んでいる大都市デン・ハーグの海浜地区に移り住んだ、ふたりは良く近くの広大な海岸へ散歩に出かけたと言う

北海に面した荒海の「スフェニンゲン海岸」、この海岸も何点か描いている

Eeerbeek 1916〜20年
4─デン・ハーグで結核を発症し、医師の勧めで湿気た海浜地から内陸のエールベーク村に移り住んだ、今は村の広場にマンクス記念碑としての山羊がいる

1920年に亡くなったマンクスの終の住処はそのまま現存していた

壁にはヤン・マンクスのシルエットがある、現在は縁故では無い方の住居

家の前にはマンクスが描いた牧場の景色が残っていた、正面に見える白い館が最晩年の雪景色に描かれている

ヤン・マンクスが住んだ土地を巡り、彼が見た景色を歩き、空気を吸って少しは作品の裏にある見えないものを感じる事ができたと思う。

 
 

戸田勝久(とだかつひさ)

画家。アクリル画と水墨画で東西の境が無い「詩の絵画化」を目指している。古書と掛軸とギターを栄養にして六甲山で暮らす。