読めもせぬのに|渡会源一


4|聖書を科学すると


最初に断っておくが、私は無宗教である。それでも山川草木に手を合わせたり、食事の前には「戴きます」を欠かさないほどの気持ちの持ち合わせはあるし、神社仏閣や教会やモスクでは自ずと敬虔な思いにもなる。
私が若い頃、旅先であるアメリカ人と知り合いになり、あまりにその人柄が高潔であることに驚き、うっかりこれは基督教のなせるところだと思い込んでしまった。短絡的であることは承知で、聖書を読んでみることにした。案の定、興味本位で聖書を読もうとした多くの人が体験しているように、「系譜」あたりで挫折した。
また友人の一人が仏教系の某新興宗教に入信すると言い出した時には、それを押し留めようとして、理論武装のために『法華経』に手をつけた。この時は岩波文庫で全文を読了したものの、入信を決意した者、回心した者には、当然のことながら「理論武装」など、何の意味もないのである。寧ろ最新科学などを尤もらしく引用して説得材料とするような宗教の方が、よほど胡散臭いというものだ。

ヨーハン・ヤコブ・ショイヒツアー(1672-1733)というスイス人博物学者がいた。彼は化石をノアの洪水の遺骸として解釈し、ある化石骨格を「ノアの洪水で溺れ死んだかつての罪深い人間の哀れな骨格」であるとし、「洪水の目撃者」と呼んだ。この主張はフランスの反進化論博物学者ジョルジュ・キュヴィエによって覆され、当該化石は、改めて古代の巨大な山椒魚のものとして同定された。

『神聖自然学』に収録された「洪水の目撃者」。トップ画像は「創世記」冒頭「はじめに神は天と地を創造された……」の図

そんなショイヒツアーの代表作が『神聖自然学 Physica Sacra』(全4巻)である。当時の科学(自然学)的知見によって聖書の記述を「事実」として図解説明したものであり、現代人の眼からは、全編胡散臭さ紛々である。ただ基督教文化の中から生まれた近代科学は、もとより神の御業を解釈するために練磨されたようなところがあるのだから、胡散臭いと思うのは当方の見当違いかもしれない。かのアイザック・ニュートン卿も錬金術や占星術についての文書を残しているばかりか、黙示録の記述に基づいて、世界の終末を西暦2060年と算出している。

『神聖自然学』の「ヨハネの黙示録」図版より陸に上がった魚と本書末尾を飾る蛇の図


何れにしても『神聖自然学』は、滅法面白い。例によってその面白さは、この分厚い本に収められた770枚の銅版画によっている。要するに聖書エピソードの絵解き本なのではあるのだが、頁によっては天文学や物理学の解説図であったりする。解剖図譜や博物図鑑からの引用も夥しい。其々の図版には聖書の対応文章が添えられている。これはもう実際に見ていただく他はないのだが、本書ではこの密度、この奇想が770枚も連打されるのである。眩暈すら覚えるというものだ。こんな聖書なら、眩暈しつつも「系譜」あたりで難破することもなく、最後まで頁を繰り続けることが出来たはずだ。
『神聖自然学』はこれまでに荒俣宏氏によってその一部(200図ほど)が紹介されているが、いずれその全体が復刻されるべき快著だと思う。

「創世記」より「これはわたしと、あなたがた及びあなたがたと共にいるすべての生き物との間に代々かぎりなく、わたしが立てる契約のしるしである。すなわち、わたしは雲の中に虹を置く……」

「出エジプト記」より「モーセが手を海の上にさし伸べたので、主は夜もすがら強い東風をもって海を退かせ、海を陸地とされ、水は分かれた……」

「出エジプト記」より「あなたはまたアカシア材の机を造らなければならない。長さは2キュビト……そのために金の環4つを造り、その4つの足のすみ4か所に、その環を取り付けなければならない……」

「レビ記」より「すべて水の中にいるもので、ひれと、うろこのあるものは、これを食べることができる……」

「ヨブ記」より「あなたは肉と皮とをわたしに着せ、骨と筋とをもってわたしを編み、命といつくしみとをわたしに授け、わたしを顧みてわが霊を守られた……」

「ヨブ記」より「あなたは雪の倉に入ったことがあるか。……これらは悩みの時のため、いくさと戦いの日のため、わたしがたくわえて置いたものだ」

「伝道の書」より「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」

「マタイによる福音書」より「しかし、その時に起こる患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう」

 

渡会源一(わたらいげんいち)

東京都武蔵野市出身。某財団法人勤務のかたわら、家業の古書店で店員見習い中。


<  3|江戸の絵年表 を読む