空っぽの月


3|カサブランカからユートピアへ


 
 

「肉体の叛乱」は、土方巽の伝説的公演とされている。もちろん、その場に居合わせることはなかった。が、画家の中村宏が撮影したドキュメント映像は、土方が鬼籍に入った後に観る機会に恵まれた。土方も中村も、当時、個人的には大ヒーローだったので、期待しすぎたためか、映像にはちょっとがっかりした。音楽がザ・ビートルズの「Abbey Road」だったのである。せめてザ・ヤードバーズあたりにして欲しかった。ベタではあるが、美空ひばりだったらまだしも得心がいったかもしれない。などと、土方への不満を抱えていたのではあるが、「肉体の叛乱」は1968年の10月、「Abbey Road」のリリースは1969年の9月であることに気がついた。後で映像に音楽をかぶせたというわけだ。それにしたって、ザ・ビートルズはないだろう。

Slapp Happy "Casablanca Moon"

堀川久子は、現在新潟を中心に活動している舞踏家である。田中泯の主宰する「舞塾」を離れた後、まだ彼女が20代だった頃の公演を西荻窪の裏街で実見した。堀川はスラップ・ハッピーの"Casablanca Moon"を選んでいた。こちらには、ちょっと意表を突かれた。この曲にはタンゴのスタンダード"La Cumparsita"が引用されている。別に堀川はタンゴのリズムで踊ったわけではないけれど、新鮮な選曲でありながらも違和感なく身体が律動していた。生演奏とのコラボレーションを含めて、音楽と舞踏が幸福な関係を取り結ぶというのは、意外に難しいのである。

カサブランカと来れば、同名映画の挿入曲"As Time Goes By"が思い浮かぶが、スラップ・ハッピーの方が、映画の雰囲気にはよく似合っている。歌詞は、二重スパイが月夜に正気を失うというもの。スラップ・ハッピーは英国、米国、そして西独出身の3人によりハンブルクで結成された変則三国同盟バンドである。同じアルバム(「Slapp Happy」)に収録されている"Slow Moon's Rose"も捨てがたい。こちらは北極圏を舞台にした月の歌である。

フジコ・ヘミング"Clair de Lune"

ここらで1曲、クラシックから。個人的には、クラシック音楽を聴くことは決して少なくない。子どもの頃、朝食時にはなぜかNHKラジオのクラシック番組が流れていた。だからと言って、両親ともクラシックの素養があったわけではない。父親は、子守唄に"ドンパン節"を歌ってくれるような人だった。ただ両親とも、歌謡曲、特に艶歌が嫌いだった。

最近は近所の名曲喫茶によく行く。目的は読書である。音量にかかわらず、ロックやジャズは聞き流せないが、クラシックなら読書の邪魔にならない。ただ時折、いつの間にか聞き入ってしまう演奏もないではない。それでもやっぱり作曲家、曲名、演奏家についての知識はほとんどない。

学校では音楽の授業が苦痛だった。授業中に初めて寝た体験は、音楽鑑賞のただ中である。かろうじてこれはいいなと思ったのは、サン=サーンスの「動物の謝肉祭(Grande fantaisie zoologique)」(1曲が短めなのとお子様好みのメロディのせいかもしれない)とラヴェルの「ボレロ(Boléro)」(こちらは不思議なリズムに魅入られた)くらいである。今からみるとどちらもフランス人で、広義の印象主義作曲家であるとこじつけることができるかもしれない。

サン=サーンスはドビュッシーに批判的だったらしいが、そのドビュッシーも印象主義に分類される(この分類、あまり意味のある仕分けではなさそうだ)。その"Clair de Lune(邦題「月の光」)"は、おそらく子どもの頃から何度も耳にしていた作品である。好きではあるものの、誰の演奏を選べばいいのか決め手に欠けた。定見のないまま、フジコ・ヘミング(Georgii-Hemming Ingrid Fuzjko)を選んでみた。自信はない。その風貌とライフ・ストーリーが先入観になっているせいかもしれないけれど、彼女のピアノには、ロックやジャズに親和するグルーヴのようなものがあるように思う。異論はあるだろうが、クラシックを聞き込むことの少ない耳にも、聞き込みやすい、あるいは飽きにくいピアノなのである。

Talking Heads "Moon Rocks"

トーキング・ヘッズは、最近、映画(もともとはブロードウェイショー)「アメリカン・ユートピア」で話題になっているデヴィッド・バーンのバンド。当初はニューヨーク・パンクの代表とも呼ばれたが、次第にリズムへのこだわりが強くなっていった。80年代のはじめには、スラップ・ハッピーとともに我が愛聴バンドだった。勇んで出かけたその来日公演は、残念ながら印象は薄かった。むしろドキュメンター映画「ストップ・メイキング・センス」が、鮮烈だった。「アメリカン・ユートピア」の方は、必要最小限の舞台設備で、音楽が音「楽」であることを、あらためて思い出させてくれる作品だ。クリス・ギアーモとテンディ・クーンバのダンスも魅力的である。土方巽御大も、たまにはこんな風に踊ってみたかったのではないかと、ついつい思ってしまった。

 

草野道彦(くさのみちひこ)

雑想家、図像コレクター。奥州雫石に生まれ、信州伊那で育つ。図像学は荒俣宏に師事。某アマチュア・ロックバンドでエレクトリック・ベースを担当。