relay essay|連閏記


15|世阿弥三諦 ─ 世阿弥が発する三つのメッセージ

鎌田東二(宗教哲学)


 

 2009年秋から世阿弥研究会を作って、京都市在住の観世流能楽師河村博重さんと2人が中心になって、月1回、世阿弥の伝書をすべて声に出して読み、議論してきた。世阿弥の残した著作は2回全篇読み切り、今は禅竹の「六輪一露之記」を読んでいる。
 読めば読むほど世阿弥の伝書は面白く、臨床や実践へのヒントとメッセージの宝庫であると唸らされる。世阿弥の芸能論を三箇条にすると、
① 能は「天下の御祈祷」である。
② 「真の花」を咲かせよ。
③ 「妙」の境位に至れ。
となる。
 まず何よりも、能は「寿福増長」の「天下の御祈祷」である。つまり、健康で長生きして平和を堪能する芸能であるということ。『風姿花伝』奥義云には、そもそも「芸能とは、諸人の心を和らげて、上下の感をなさむ事、寿福増長の基、仮齢延年の方なるべし。極め極めては、諸道悉寿福延長ならんとなり。殊更この芸、位を極めて、家名を残す事、是、天下の許されなり。是、寿福増長なり。」(『日本思想大系24 世阿彌・禅竹』表章他編、岩波書店、1974年、45頁)とある。
 ここで、世阿弥は繰り返し「寿福増長」とか「寿福延長」と言う。たとえば、「翁」や「高砂」などの神事性を伴った祝儀物の演目にそれは明確に現れている。
 また、『風姿花伝』第四神儀云には、「讃仏転法輪の因縁を守り、魔縁を退け、福祐を招く。申楽舞を奏すれば、国穏やかに、民静かに、寿命長遠なり。(中略)村上天皇、申楽を以て天下の御祈祷たるべきとて」(同40頁)とも、「南都興福寺の維摩会に、講堂にて法味を行ひ給ふ折節、食堂にて舞延年あり。外道を和げ、魔縁を静む。その間に、食堂の前にて彼御経を講給。すなはち、祇園精舎吉例なり。然ば、大和国春日興福寺神事行ひとは、二月二日、同五日、宮寺に於ひて、四座の申楽、一年中の御神事始めなり。天下太平の御祈祷なり」(同41頁)ともあり、「魔」を退散させて「福」を招き寄せる「天下(太平)の御祈祷」であると強調されている。
 能は、単なるエンタメ芸能ではない。国家的神事であり、呪儀・呪祷なのである。
 そんな能を実践する役者は、観客に「花」を見せなければならない。だが、その「花」もいろいろの相がある。若い頃の香り立つような「時分の花」もあるが、それは一時のものでもある。だから、その時々の変転を超えて貫く「まことの花」を咲かせねばならない。
 このように、「花」には、「時分の花」や「声の花」や「幽玄の花」など、「態(わざ)より出で来る花」があるので、それらは時々に咲きもすれば散りもする。「まことの花は、咲く道理も散る道理も、こゝろのまま」(同36頁)なのだ。
 その「花」とは、第七別紙口伝では、「珍しき」と「面白き」と同義であると説く(同55頁)。だから、それは埋没しない。浮き立って、変幻さを垣間見せる差異性でもある。また、「秘すれば花」という隠しや隠れの位相もあれば、「因果の花」という原因結果のメカニズムがもたらす「花」もある。だから、「花」という実体的で固定したものがあるわけではない。ある状況や位相の中で「花」が浮き立ち、咲くのを見るのである。そのような瞬間に立ち会わせることこそが能役者の心構えである。がゆえに、「花は心、種は態(わざ)」(同37頁)と言うわけなのである。
 それでは、その「花」の極みとは何か? 『風姿花伝』と名付けるのも、奥義云には、「その風を得て、心より心に伝る花」だからとされるが、それは「妙花」という言葉で示される。「世上万徳の妙花を開く」(同46頁)とか、「万徳了達ノ妙花」ヲ極ムル」(同65頁)とも表現されているが、さらに世阿弥晩年の伝書である『九位』の中では、芸の境位を、大きく「上三花・中三位・下三位」の三段階に分類し、さらに各三段階を細かく三つの境位に分けている。細かい説明は省くが、上から「妙花風・寵深花風・閑花風(上三花)、正花風・広精風・浅文風(中三位)、強細風・強麁風・麁鉛風」の「九位」となる。
 その中のトップの位置に立つのが「妙花風」で、これは次のように説明されるのだが、なかなかイミシンである。「新羅、夜半、日頭明なり。/妙と云ぱ、言語道断、心行所滅なり。夜半の日頭、是又言語の及ぶべき処か。/如何。然ば、当道の堪能の幽風、褒美も及ばず、無心の感、無位の位風の離見こそ、妙花にや有るべき。」(前掲174頁)
 これ自体が、一つの禅の公案である。「新羅、夜半、日頭明なり。」とは、夢窓国師の『夢中問答』など、多くの禅書に出て来る禅句である。これをどう解するか? 朝鮮半島の新羅の国では、真夜中に太陽があかあかと万物を照らすと文字通り読むと、そのような矛盾した事態があるわけがないということになる。「真夜中の太陽」などという絶対矛盾は現象しないからだ。暗黒と太陽、闇と光は対立概念である。
 しかしながら、「妙」とは「言語道断、心行所滅」なのである。つまり、矛盾でありながら二元対立の矛盾を超えて、言語で言い表わすことも、心で察知することもできない霊妙なる不可思議の境。その「幽風」にして「無心の感、無位の位風の離見こそ、妙花」なのであると言う。
 そのような、名人とも「妙人」も言うべき、現象世界のあらゆる対立差別を超えて随意に咲き続ける真如の「妙花」を、南北朝の深刻なる二元対立を経験してきた世阿弥は究極の乗り越えの至道として提示した。
 「魔縁」の連鎖とも見える戦乱の末法の世の中の「天下の御祈祷」としての芸能とは何か? 世阿弥の「魔縁を退け、福祐を招く」求道に極まりはない。「南北東西朝の乱」が進行しつつあるかに見える現在、じっくりと世阿弥の声とメッセージを聴き取ろうとする余裕と姿勢も必要であろう。時代の難局を超えてきた智慧を汲み取る力が必要なのである。

参考文献:鎌田東二『世阿弥──身心変容技法の思想』(青土社、2016年)
トップ画像:『能樂図巻』(国立国会図書館蔵)より


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