relay essay|連閏記
24|余白と貝塚
石川裕二(神経生物学者)
定年退職後の人生は余白とも言える。鉱山の切羽の坑夫のように、懸命に働いた後に続く、貴重で不思議に思える時間。
私の恩師たちは退職後それぞれに、自宅にささやかな実験室を造ったり、故郷に帰り晴耕雨読と釣りの生活を新しく始めたりされた。私も退職後それなりに新しい生活を始めたが、貧しい書生生活には変わりがないものの、突然裕福な時間金持ちになったのに気づいた。
そんな中で始めたものの一つに貝塚訪問がある。
私の住む千葉市は貝塚の多い街である。縄文時代の貝塚は日本全国に約2,400箇所確認されているそうだが、東京湾沿岸にはその1/3に相当する約800箇所が確認されている。東京湾の東海岸に位置する千葉市だけでも、120箇所を超える貝塚があるそうだ。
その中でも大きな貝塚は、自宅からさほど遠くない、特別史跡の加曽利(かそり)貝塚である。ここには日本最大の貝塚(直径140mの環状貝塚と長径190mの馬蹄形貝塚からなる)、復元された竪穴住居集落、そして出土遺物を展示している博物館がある。加曽利には旧石器時代から人間が住み、縄文時代中期後半(約5,000年前)から大きなムラがつくられ、貝塚が形成され始めたという。その後、貝塚が形成されなくなった縄文時代晩期中頃(約3,000年前)までムラが営まれたらしい。縄文人は、実に約2,000年もの長い間この地に暮らしていたことになる。下総台地の加曽利は、縄文人にとって特別に住みやすい地だったようだ。
それもそのはずである。台地の下には都川(みやこがわ)水系の川が流れ、その東京湾河口付近には広大な干潟と浅瀬が広がっていた。縄文人は丸木舟を使って海とムラを往復し、豊富な海産資源を利用していた。また、ムラの背後に広がる森や野原では、イノシシやシカなどの動物資源やクリやマメ類などの植物資源が利用できた。これら自然からの恵みは、土器を使ってグツグツと煮込まれたことだろう。貝や魚の骨からは、美味しいスープがとれ、硬いスジ肉や植物繊維も柔らかくなった。出来上がった「鍋もの」は、木製のさじや碗を使っておいしく食されたはずだ。日本の食文化である「鍋もの」あるいは海産物の利用は、縄文時代に遡れるほどの随分と古い歴史をもっている。
一般に、土器の出現をもって縄文時代の始まり(約16,500年前)とされている。土器の作成には、複合的な高い技術が必要である。まず、土器に適する土を見出す経験と適正な粘土を作る技術である。次に、粘土を紐状に伸ばし、その紐を輪形に積み上げて、水が漏れないような「うつわ(器)」の形に整形していく。この時に、縄きれを転がすことなどにより、その表面に文様がつけられる。適正な時間を置いて「うつわ」を乾燥させ、その後、それを焚き火にかけて上手に化学変化(焼成)させる。こうして、ようやく耐水性・耐火性に優れた煮沸具としての土器が誕生する。縄文土器は「鍋用うつわ」として登場したのであった。
食べた後に残った貝殻や動物の骨は、道具や装飾品として再利用されたものもあったが、大部分は貝塚にまとめて積まれた。私は、「貝塚は縄文人のゴミ捨て場」と勝手に思い込んでいたが、どうもそうではないらしい。「人形塚」や「針塚」と同じく、貝塚には何らかの意味合いがあったという。縄文人は、自然からのさらなる恵みを祈り、生命の回帰・再生を信じていたらしい。その証拠に、貝塚には200人以上の人間と15匹の狩猟犬が丁寧に埋葬されていた。
加曽利貝塚を訪問した時には、私は竪穴住居に入り、その中でしばらく座り込むことにしている。当時の加曽利の人たちの思いや考えを、少しでも感じ取りたいからである。縄文人の話していた言語は不明だし、文字もなかったから、それは判然としないのだが、想像することは可能だ。飢え、寒さ、暑さ、虫やマムシなどの動物からの害、自然災害、狩猟や丸木舟での事故、そして病気や怪我。現代に暮らす私たちと比べると、格段に厳しい生活だったことだろう。乳幼児の死亡率も高かったはずだ。平均寿命は約50歳だったという。それでも、今の私たちと同じように、先祖たちもまた生活の中に喜びと楽しみを見つけていただろう。住居の中で静かに座っていると、子供たちが笑いながら子犬と遊んでいる様子が心に浮かんでくる。
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