relay essay|連閏記
27|ブラームスの子守唄
田井中麻都佳(編集者・ライター)
母が亡くなって数年経ったある日、兄とクラシックのコンサートに出かけることになった。母が亡くなる少し前、兄と大喧嘩をして、私が予定を早めて実家から帰ってしまったせいで、家族四人揃って行くはずだった母の最期の外食を反故にしてしまったことが、ずっと気にかかっていた。後にも先にも、兄とあんな喧嘩をしたことはなかったのだけれど、たしか兄が病床の母に心配をかける出来事があって、私が文句を言ったのが発端だったと思う。「お母さんに心配かけないでよ」と言うと兄が激昂して、ひどく怒鳴りつけられたのがショックで、翌日、兄が会社に行っている隙に新幹線に飛び乗って帰ってしまったのだった。以来、兄とはまともに口をきいていなかった。
コンサートは、ドイツのヴァイオリニスト、アンネ=ゾフィー・ムターとピアニストのランバート・オルキスとのデュオで、演目は私が好きなブラームスのヴァイオリンソナタ。十代でカラヤンに見出され、天才ヴァイオリニストの名をほしいままにしてきたムターのことを教えてくれたのは、ほかでもない兄だった。趣味で下手なヴァイオリンを弾く私に、「ムターのシベリウスのヴァイオリンコンチェルト聴いたことある? きっと好きだと思うよ」と。たしかに、冒頭のむせびなくよう音色といい、速いパッセージでたたみかけるように音符を自在に操る卓越したテクニックといい、こんなことを言ったら怒られそうだけれど、まるで超絶技巧と泣きの音色を併せ持つロックギタリストのようでもあり、熱情溢れる彼女の演奏に、一度聴いただけで大ファンになった。
そのムターが地元の横浜に来ると知って、兄を誘った。前日、うちに泊まりにきた兄に、私は数年前の果たせなかった食事の罪滅ぼしもあって、食べきれないほどの手料理をつくった。二人とも喧嘩のことなどおくびにも出さなかったけれど、他愛のない話をしながらご飯を食べ、少しだけ母の話もした。
「この前、お母さんが初めて夢に出てきたよ」と、兄。「葬式でもずっと泣けなかったけど、夢でお母さんと話して、大泣きして目が覚めた」のだと言う。そんな話をそのまま続けたら泣いてしまいそうだったので、すぐに話題を切り替えたけれど、母の手の温もりが感じられるほどリアルな夢だったという。
翌日のコンサートは素晴らしかった。情熱的なシベリウスとは違って、ムターのブラームスは繊細でありながらもじつに慈悲深く、心に沁み入るようだった。ブラームスのソナタ3曲すべて弾き終えたムターは、聴衆の拍手に促されてアンコール曲を弾いた。一度目のアンコール曲はなんだったか忘れてしまったけれど、名残惜しくて、手が痛くなるほど拍手をしたことを憶えている。その思いに応えるかのように、ムターはもう一曲、アンコール曲を弾いてくれた。
それは聴き憶えのあるメロディーだった。その途端、涙がわーっと溢れてきた。ふと、横を見ると、兄も泣いている。笑顔の聴衆のなかで、私たち兄妹だけが子どものように泣きじゃくっていた。
それは母が私たちに毎日、歌ってくれた子守唄だった。でも、私たちはそれが「ブラームスの子守唄」だとは知らなかった。なぜなら、母がオリジナルの歌詞をつけ、ときにおどけた調子で、ときにやさしく、さまざまな節回しで歌っていたから(母はうちの猫たちにも歌っていたほどだ)。私たち兄妹にとって、その子守唄は母の歌そのものだった。
コンサートからの帰り道、二人ともほとんど口をきくことができなかったけれど、兄がボソっと、「今日、お母さん、間違いなく一緒に聴いてたね」とだけ言った。そのまま、お茶もせず、桜木町の改札口で別れた。
数日後、ムターのコンサートがサントリーホールでも開催されることを知った。兄に「当日券で行ってみる?」と言うと、行くとの返事。私たちは母が大好きだったカサブランカの花束を買い、兄がムター宛てに、あなたの子守唄の演奏を聴いて、私たち兄妹は亡くなった母を思い出しながら泣いたこと、その曲が母のオリジナルだと思い込んでいたことを英語でしたため、その手紙を花束に添えて、ムターに渡してほしいとホールの係の人にお願いした。
それから数カ月ほどたったある日、ムターから思いがけず返事が届いた。「アーティストが、演奏した楽曲に対して、聴衆からその曲にまつわる個人的な〈家族の物語〉を打ちあけてもらえるというのはとても稀なことで、感銘を受けました」という内容で、サイン入りのCDも一緒に同封されていた。以来、私たち兄妹はたまに顔を合わせると、ときどきその話をしてしまう。もちろん、以来、喧嘩は一度もしていない。
それからさらに数年が過ぎた母の日のこと。兄からメッセージが来た。「知ってた? Mutterってドイツ語でMotherの意味、つまりお母さんだってこと! 友だちが教えてくれた」と。そんな出来すぎた話があるかと思うけれど、たしかに辞書を見るとそう書いてある。じつはその後も、母は私たち兄妹のもとへ降りてきた(?)ことがあるのだが、その話はまたいずれどこかで。
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