楽の器|土取利行
4|ヨルバ族のトーキングドラム[2]
イフェの職人さんに作ってもらったヨルバ族のトーキングドラムセット。左からイヤイル、ガンガン、シュケレ、グドゥグドゥ
アイアンソラと出会った翌日から、彼が教えるイフェ大学のクラスで学生たちとトーキングドラムの手ほどきを受けることになった。トーキングドラムは先に紹介した南インドのティミラや日本の鼓のように、砂時計型の木の胴の両側にヤギの皮を張り、それを皮製の調緒(しらべお)で結びつけたものである。トーキングドラムの一番大きい太鼓はイヤイルと呼ばれ、左肩から皮のベルトで腰の高さに吊るし、調緒を左手で数本束にして握り、手首を外に返すように引き、右手に持った湾曲した撥で鼓面を打って演奏する。
このイヤイルは調緒を一番強く引いて出す高音、緩く引いて出す低音、そしてその中間音からなる三つの音調で言語機能をもたらす。イヤイルと同じ形をした少し小さいガンガンは音調操作をせず多様なリズムを奏し、これに半球型の太鼓グドゥグドゥや大きい瓢箪の周りにビーズの網を被せたシェケレという楽器が加わり、これらの織りなすポリフォニックなリズムを背景にイヤイルのメッセージが繰り広げられるのである。
稽古は数日間イヤイルで三つの音の高低を正確に出せるよう強いられる。調緒を握る左手の親指と人差し指の間は、日毎に裂けてきて血が流れでる。包帯でそこをカバーして痛みを堪えながら練習を続ける。ドラムセットに慣れ切った私の腕は、全く異なるトーキンングドラムの奏法に、まさに言葉を失った。
やがて三つの音程が正確に出せるようになると、短い言葉のフレーズを憶え、それを他の打楽器群のリズムの中で演奏してゆく。合奏に要求されるのはトータルリズムを把握するリズム感覚だ。このポリフォニックなリズムの流れにイヤイルの言葉を絡ませていくのは、ちょうど走っている車に飛び乗るような技がいる。
アイアンソラの家で練習していると、子供達がよくやってきた。最初は私の練習を聞いていたと思うと、やがて空き缶に皮を張った太鼓を持ってきて一緒に演奏を始めたりする。マスターのいない時には、少しだけ英語も喋れた長男のバシルが私の練習仲間になってくれた。
アイアンソラの部屋にはキリストのイコンが飾られていた。ヨルバ族の太鼓とキリスト教はしっくりこなかったのだが、最初に彼の生徒が連れて行ってくれたのもアイアンソラが演奏するキリスト教会だった。ナイジェリアの宗教の変遷については全く知らなかったのでこの違和感は続いていた。そんなある日、暑さと食事が原因で下痢をしたり発熱したりと厳しい日が続いた。内臓が疲労のピークに達した夜、外に出て思い切り喉の奥まで手を突っ込み酸っぱい胃液を吐き出し、ただただ祈るのみだった時、夜空の下、近くの教会から大声で歌う讃美歌が明け方の5時頃まで続いていた。
疲労は数日間続き、一日中食事も摂らず横になっていた日もあった。暑さと蚊の攻撃もあって部屋におれず広場の椅子に腰をかけていた。真夜中を過ぎた街の静けさ。その静けさの中から今度は讃美歌ではなく、トーントーンと太鼓の音が聞こえてくる。疲れ果てた身体から太鼓の音と共に自我がすべて去ってゆくようだった。
数日後、体も回復して再び練習を続けることができた。アイアンソラに会った時に注文してもらっていたイヤイルなどのセットも届き、婦人が衣装のダンシキを縫ってくれていた。イフェを去る前に、私はアイアンソラのグループに入り、街を一緒に演奏して回ることになった。アイアンソラが最初に連れて行ってくれたあの喧騒の通りである。熱気と赤土の埃の舞う中で私はドラムビートに身を委ねきっていた。ドラム演奏に恍惚となって踊っていた老婆が私のもとにやってきて汗だらけの額に紙幣を貼ってくれた。その側で若い女性が大地を踏みつけるようなフットワークでしなやかな踊りを見せると、グググーンとアイアンソラのイヤイルが高らかに声を上げ、楽師たちは意気高揚してさらなるポリフォニックなリズムの渦を展開してゆく。私にとってこの一日の、一瞬一瞬の演奏体験こそは、他では味わえぬ音楽的至福を与えてくれたのである。
アイアンソラは出会って数年後に亡くなられた。今では彼の長男バシル君も五十歳を過ぎている。彼は父のようにイフェのトーキングドラムマスターとして健在なのだろうか。そう、願う。
トーキングドラムの師 アイアンソラ(右)……暗い室内での撮影により不鮮明だが、アイアンソラの貴重な写真
ナイジェリア・イフェでのアイアンソラのグループに参加した時のショートチューンを納めた土取利行のLP「AJAGARA」
土取利行
1950年、香川県生まれ。パーカッショニスト、ピーター・ブルック劇団音楽監督、縄文鼓・銅鐸・サヌカイト奏者。現在は岐阜県郡上八幡を拠点に活動中。
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