忘れものあります|米澤 敬
3|リンゴの行方
何度目かのAI(人工知能)ブームだとのことで、一時は機械知が人知を超える「シンギュラリティ」の到来も噂されていた。AIの行く末について、博物学研究家の荒俣宏さんに問いただしたことがある。荒俣さんは言下に「とっくにシンギュラリティは来ている」と切って捨てた。すでにAI忖度の時代になっているともおっしゃった。
なるほど、グーグルで検索をかけるにも、いつの間にか検索しやすい言葉の並びを選んでいるし、スマートスピーカーに指示(お願い)をするときには、声を張ってスピーカーが応答しやすい言い方に配慮している。人間の行動はコンピュータ、あるいはAIに合わせて変化してしまっているのである。荒俣さんには「でも、僕も米澤も、もうすぐお空の人になってしまうんだから、そんなことを気に病む必要はない」と忠告された。そういう悲観とも楽観ともつかない物言いは、いつものことである。
ところで、AIとはいっても、とどのつまりは算数である。やっかいなのは、その算数の1+1において、すでにAI忖度の類が芽生えていることだ。小学校ではよく、「テーブルの上に一個のリンゴと一個のミカンがあります。合わせていくつでしょう」というような言い方をする。
これはメタファーとしても出来が悪い。リンゴとミカンでは大きさも重さも色も、もちろん味も違う。大人の理屈では、リンゴ一個とミカン一個を抽象化しているということになるのだろうが、そんなことは小学生にとって知ったことではない。それに抽象化というなら、リンゴはバラ科、ミカンはミカン科とするのが生物学的な抽象である。なのに算数とは何なのかを教えないままに、テーブルの上のリンゴとミカンを1+1=2として飲み込ませるのは、先生、あるいは教科書への忖度を強いているだけだ。忖度に長けている奴が成績もいい。
百歩譲って、リンゴとミカンが1+1=2であるとしても、1℃の水と1℃の水を足しても1℃にしかならない。さらに駄目押しするならば、「5」という数字が1つと、「3」という数字が1つある場合、それらを合わせるといくつになるのか。それも1+1=2なのか。そういうメタレベルの数学もあるのだよ、と突っ込まれるかもしれないが、1+1=2は、やっぱり何か大事なものを捨てている。
それでも大方の小学生は、大人たちに配慮して1+1=2を飲み下しているのである。別に算数に因縁をつけたいわけではない。算数を教えるときには、算数がスポーツやゲームと同じようなものであることを伝えて欲しいだけだ。サッカーでオフサイドが反則であるように、分数の割り算では分子と分母を引っくり返して掛ければいい、それだけの話だ。もちろんルールには根拠があるが、そんなものはゲームを楽しんでいるうちに、納得できるものである。
だいたいテーブルの上に置かれたリンゴは、鮮度が落ちる前に食べてしまうのが正解である。コンピュータやAIに、林檎は喰えまい。
米澤 敬(よねざわたかし)
群馬県前橋市出身。小学校ではは新聞委員、中学校では放送委員をつとめ、高校では生物部に所属した。以後、地質調査員、土木作業員、デザイナーを経て、現職は編集者。
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