気取らず 威張らず


清野恵里子(せいのえりこ)

群馬生まれ。文筆家。伝統芸能や、古美術、工芸、映画など、ジャンルを超えて、好奇心のおもむくまま、雑誌の企画、執筆など続ける。独自の美意識に基づくきものの取り合わせは、多くのきもの好きに支持される。『咲き定まりて 市川雷蔵を旅する』、『時のあわいに きものの情景』など著書多数。


1|師走のいずし


 

毎年の暮れ、新潟の従姉が送ってくれる「いずし」を心待ちにしている。

麹をまぶしたご飯を、さまざまな具に纏わせて乳酸発酵させたなれずし「飯寿司」を、父の郷里、新潟では「いいずし」「いずし」と呼んで親しむ。

鱗や皮を丁寧に取り除いて一口大に切った新巻鮭。やはり同じように手間をかけた身欠き鰊、程よく塩抜きして薄皮をはいだ数の子も、エンペラと足を取ったスルメもみな大きさを揃え、軽く塩をしてしぼった胡瓜と大根、人参、柚子が彩りを添える。

北国の凍てつく寒さの中で、ゆっくり穏やかに発酵した酸味の少ない上品な甘さが、いずしの魅力である。一年の最後の月のまん中あたりに漬け込んだこのなれずしが、我が家に届くころには、材料それぞれの塩味がご飯の甘味と相まって、得も言われぬとろりとした味わいに変わる。

華やかなことが好きだった母とは対照的で、何事に依らず派手なことを好まなかった父が、「食」については執着を見せ、暮れになるとあちこちから届く立派な新巻鮭は、父をたいそう上機嫌にした。

新巻をめぐる一連の仕事はもっぱら父の担当だった。水を張った大きな金盥に浸けて塩を抜き、割り箸を開いた腹に2か所ほど渡すと、寒い廊下に手際よく吊るした。

何本もの鮭が放つ熟成の匂いの記憶は、さまざまな父の思い出に重なる。

子どもの頃から元旦の晴れのお膳がとても苦手で、お節やお雑煮、お汁粉さえ少しもうれしくなかった私には、夕食に出される厚く切った新巻と、裏の小屋に大きな重しをのせて漬け込んだ白菜のシャキシャキと優しい味が何よりも待ち遠しかった。

廊下の天井に吊るされて旨味を増した新巻を、厚めに筒切りにするのが我が家流。断面に年輪のように重なる身を一枚一枚はがすと艶々と美しく、とりわけ香ばしく焼けた皮を父は好んだ。

幼い私たちが残してしまう鮭の皮を、父は上手にほぐした身と交換してくれるのだが、そんな時、鮭の皮をこよなく愛したという殿様、伊達政宗の話をよく聞かされた。

新潟生まれの父にとって、新巻鮭が本領を発揮する「いずし」は、師走を迎えるころ、祖母が漬けてくれた懐かしい味だったようである。

どうしても「いずし」の味が忘れられずにいた父が、あるとき妙案を思いつく。

父は新潟の地主の三男坊として生まれた。上のふたりの兄はそれぞれあんちゃま、おんちゃまと呼ばれ、三番目の父がさんちゃま、すぐ下の妹がきよちゃまで、弟がつねちゃま、末の妹はちえちゃまとそれぞれの名に「ちゃま」をつけて呼ばれていた。

上ふたりの兄たちは年が離れていたせいもあり、妹たちにとっては、三番目の兄である父は気安く甘えられる存在だったと聞く。母も呆れるほどの子煩悩だった父のことである、ずいぶん妹たちを可愛がったのだろう。

食いしん坊の父が考えた妙案とは、郷里の近くに嫁いでいた三つ違いの妹に「いずし」の材料費を送り、記憶の味を再現してもらうことだった。

器:江戸後期 白丹波片口

以来、暮れになると、きよし叔母が作る「いずし」が父のもとに送られるようになったが、突然癌を発症した叔母は、51歳の若さで他界してしまった。

作り手が不在となって「いずし」が途絶え、それから十年ほどの時間が流れて父が逝った。

戦争は抗しようのない不条理な力でひとの人生を変える。

父も母も亡くなってしまった今、ふたりから聞いておけば良かったと思うことがたくさんある。とりわけ、戦争を挟んだ十年あまり、父がどんなふうに過ごしたのか、ほとんど何も知らないということが悔やまれてしかたない。

1919年生まれの父は、満25歳で終戦を迎えた。

「繰上げ卒業」や「学徒動員」という言葉を父や母から幾度か聞いたことがある。父はある事情から満州で一時期を過ごし、その後、大学に入学する。おそらく入隊は1943年。大学に遅れて入った分、周囲の若者たちよりも少し年齢が上だったはずである。

士官候補生として郷里の新発田連隊に入隊。中尉として配属された千島で終戦を迎えるが、終戦間際に参戦、千島に侵攻を続けたソ連軍によって捕虜となる。

極寒のシベリアで4回目の冬を迎える直前、1949年の10月、父はようやく帰還した。

父の書庫に残されたたくさんの大学ノートを埋め尽くす、几帳面に書かれた文字や、アルバムに貼られた詰襟の学生服姿から、真面目で実直そうな若き日の父の姿が浮かぶ。

父と母の結婚の経緯についても知るところはほんのわずかばかりで想像の域を出ないのだが、この実直な青年が、本郷生まれの女子大生、つまり母に恋をした。

当時母に宛てた恋文につづられた言葉や、父が母にすすめたという倉田百三の「愛と認識との出発」のことなど、母は嬉しそうに私たちに聞かせてくれた。

入隊を目前に控えた父との結婚。風習も何もかも異なる遠い地で、見知らぬ人に囲まれながら夫を待つ暮らしを決意した母と、そんなことのすべてを分かっていながら、それでも母を妻にすることを望んだ父。二十代の半ばにも満たない若い二人の強い思いが、ひたすら愛おしく思える。

極寒の地シベリアで過ごした歳月は、学生時代、講道館に通って鍛えたという屈強な父の身体をも知らぬうちに蝕ばんでいた。

いつも数種類の薬の服用が欠かせなかった父は、五十代の終りクモ膜下出血を発症。幸い術後も後遺症に悩まされることなく数年を穏やかに暮らしたものの、その後、胸部大動脈瘤の手術を受け、意識が戻らぬまま亡くなった。

すっかり忘れていた「いずし」が、従姉から送られるようになって二十年くらいになるだろうか。

祖母から叔母へ、叔母から従姉へと伝えられた得も言われぬ味「いずし」を、毎年心待ちにしている。