気取らず 威張らず|清野恵里子

6|マックとE.T.


 

少女の名前は由ちゃん。近くの小学校に通っていた由ちゃんは、ランドセルを背負ったまま、日課のように我が家にやって来た。
二十代後半から三十代の半ば、東京郊外の団地の二階で暮らしたことがある。入居からしばらくしてその五階に引っ越して来たのが由ちゃんの一家で、ほぼ私と同じ世代の両親と、由ちゃん、弟の優一くんと玄ちゃんの、賑やかな五人家族だった。
子供が何かを嗅ぎ分ける力に、大人は遠く及ばない。階段などで何度かすれ違ううち、彼女のセンサーが作動して、「このひと、トモダチになれる!」、おそらく、そんな風に私は見抜かれた。
由ちゃんは、かなり早熟で、賢い女の子だった。正直言えば、今もあの時代も、私は「子供」の相手をすることが得意ではない。それなのに、二十も歳の離れた小学生の彼女と、不思議な時間を共有した。
当時、フランスのインテリア雑誌や、中央公論社から創刊されたばかりの女性誌、マリー・クレール・ジャポンの記事など、大した量ではないが、翻訳の仕事を始めていた。
メールで原稿のデータを送るかわりに、鉛筆で手書きした原稿用紙を郵送する。まだそんな時代だったから、在宅ワーカーの私は、放課後立ち寄る恰好な場所を彼女に提供した。
ピンポーンという音に続いて、「リコさーん」(いつの間にか、私はリコさんと呼ばれるようになっていた)と呼びかけられて、扉を開けると、ランドセル姿の由ちゃんが立っていた。
由ちゃんは、少しばかりのずるさをのぞかせる、子ども特有の甘えを含んだ笑顔を一切見せない少女だった。私と二言三言言葉を交わすと、ごく当たり前のように、するすると家の中に入ってきた。
由ちゃんが覚えているあの頃のことは、私よりもはるかに多い。最近聞いた「リコさん、一度も迷惑そうな顔をしたことなかった」という思いがけない一言が、なんだか嬉しかった。
由ちゃんによれば、一家が引っ越してきたのは、小学三年生になったばかりの1982年の春。私がその団地に暮らしたのは、1986年の半ばあたりまでだったから、彼女と過ごした期間は4年とちょっと。そう長い時間ではない。
公団住宅の間取りは、なかなかうまく考えられていた。玄関の扉を開けると、左手に四畳半の和室、右手には浴室とトイレ、洗面所とその脇に洗濯機を置くスペースがあった。キッチンの隣は、六畳間、その奥が四畳半で、いわゆる3Kということになるが、入居と同時に、部屋の間の建具をすべて外して、代わりに本棚を置いた。
少しでも嫌なものをそばに置きたくないし、視界に入れたくないという性格は、程度の差こそあれ、今も当時もそう変わってはいない。
思い返してみれば、ずいぶん大胆な行動に出たものだといささか呆れるが、壁の緑がかった中途半端なグレーの色を見るたびに憂鬱な気分になって、塗り替えることを思いついた。
台所を真っ赤に、浴室とトイレは黒と決めて、DIYの店で二色のぺンキと、刷毛などあれこれ買った。ペンキ塗りの経験は一度もなかった。あとさきのことを考える慎重さの持ち合わせはないし、正確を期する几帳面さなんて微塵もない。要するに、建築現場で作業する、塗装職人の姿を思い浮かべながらの見よう見まねである。床を新聞紙で覆い、電気の差込口や、天井の境目、窓枠などをマスキングテープで養生した。シンナー遊びの若者みたいにトルエン中毒になったら大変と、しっかりマスクもしたし、窓を開けて換気扇を回した。
赤いペンキを塗られた壁は、スプラッター映画の凄惨なシーンを連想させ、どうなることかと一瞬不安がよぎったものの、こころざし半ばで引き返すわけには行かない。やがて、赤い壁と黒い壁が完成すると、そう悪くはない出来栄えに、ひとり悦に入った。
由ちゃんは、そんなアバンギャルドな我が家にしばしばやって来ては、リビングの丸テーブルにノートやドリルを並べた。
おやつの時間、紅茶やハーブティーに添えられたお菓子は、いつも私の手作りだったと由ちゃんから聞かされたが、その記憶もすっかり消えている。当時、赤い台所にでんと置かれていた大きなGEの冷蔵庫は、領事館の任期を終えて帰国するフランス人から1万円で譲り受けたものだった。そういえば、あの頃、アーモンドやクルミを刻んで入れた、クッキーのたねを冷凍庫の隅に入れていた。

由ちゃん一家が引っ越してきた1982年の暮れ、公開された映画がある。
地球外生命体(The Extra-Terrestrial)と、少年エリオットの心の交流を描いたスティーヴン・スピルバーグの初期の名作「E.T.」である。
「E.T.」を観に、吉祥寺の映画館に行った日のことは断片的に覚えていて、それに由ちゃんの鮮明な記憶を重ねた。
あの日、私が「引率」していたのは、由ちゃんと弟の優一くん。それにもう一人、優一くんの同級生で、私たちが住む建物の通りを隔てた向こう側にあった商店街の八百屋の息子の三人だとばかり思っていた。ところが、もう一人、この息子の姉が一緒だったという。彼女は、由ちゃんのクラスメイトだった。
前にも書いたが、今も昔も子供好きというわけではなく、面倒なことには極力近づかないようにしている。四人の小学生を引き連れ、バスや電車を乗り継いで吉祥寺の映画館に上映中の「E.T.」を目指したという、にわかには信じがたい我が過去に驚かされた。
両親が店の切り盛りに忙しく、映画に連れて行ってもらったことなどなかったらしい八百屋の姉弟の想定外の参加は、おそらく由ちゃんの心優しい企みだったに違いない。
その日を境に、それまで愛想のなかった八百屋のおばちゃんから、人懐こい笑顔で話しかけられるようになった。映画鑑賞の翌日、彼らが通う小学校の二つのクラスでは、映画の話題で盛り上がったそうだ。

40年ぶりに「E.T.」を観た。
物語の後半、息絶えたかと思われたE.T.の胸のあたりが赤くなり、バイタルが復活すると、傍らに置かれた鉢植えの萎れた花が徐々に息を吹き返す。
群青色の空に浮かぶ大きな月。小さな宇宙人をカゴに乗せ自転車を漕ぐ少年のシルエットが印象的だった、E.T.のポスター。少年が漕ぐ自転車は、1970年代、モトクロスにあこがれたアメリカ西海岸の少年たちの間で人気だったBMXである。

主人公、エリック少年が、心を交し合ったたいせつな親友であるE.T.を、丘の上の公園まで送り届けるクライマックスのシーン。小さな宇宙人を研究対象にしようと躍起になる研究者を乗せた車や、パトカーを振り切って、エリックを先頭にして、少年たちが必死にBMXのペダルを漕ぐ。あわや追いつかれそうになった瞬間、BMXがふわりと宙に浮く。
息をのんで、大きなスクリーンに見入る小学生たちの興奮と歓喜を想像する。由ちゃんによれば、みな立ち上がって拍手したらしい。
現代の子供たちは、スマホやタブレットなどのデバイスを、体の一部のように自在に使いこなす。彼らは、最先端のコンピューターグラフィックを駆使して製作された映像の、ヴァーチャルリアリティなる世界に精通し、すっかり馴染んでいる。
ほぼ半世紀前に作られた、手作り感満載のE.T.と少年の物語が、そんな彼らの目にどんな風に映るのかわからないが、あの日、観客席にいた小学生たちは、間違いなくエリック少年と友人たちと一緒になって自転車のペダルを漕いだ。
映画館の帰り、私たちは、近くのマクドナルドの店で、大きなマックを頬張った。

由ちゃんとの関係は、音信不通の数年をはさんで、今も続いている。

 

清野恵里子(せいのえりこ)

群馬生まれ。文筆家。伝統芸能や、古美術、工芸、映画など、ジャンルを超えて、好奇心のおもむくまま、雑誌の企画、執筆など続ける。独自の美意識に基づくきものの取り合わせは、多くのきもの好きに支持される。『咲き定まりて 市川雷蔵を旅する』、『時のあわいに きものの情景』など著書多数。


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