書物の庭|戸田勝久
24|カタログ・レゾネという書物
“L’Œuvre gravé de Jean-Émile Laboureur”
Louis Godefroy, A Paris, Chez L’Auteur, 19 Rue de Caumartin, 19, 325x255mm, 500部刊行、1929年
“Catalogue complet de l’œuvre de Jean-Émile Laboureur” Tome I, II, III
Sylvain Laboureur, Ides et Calendes, Evole 19, 2000 Neuchâtel,Suisse, 216x142mm, 1989-1991
「カタログ・レゾネ」はフランス語で”Catalogue Raisonné”と書かれ画家や版画家の総作品目録を意味する。「レゾネ」は論理にかなったと言うこと、即ち充分研究されて学術的に正しいとされた内容で、作家の一生涯全ての作品を通し番号を付して年代順に並べた信頼出来るカタログ。
大抵大きく分厚くて高価な本だが、それも仕方がない。美術史家や研究者達が自らの生涯をかけて調査研究した画家、版画家の全作品の題名、大きさ、技法、制作年、来歴、制作時の情報や歴代所蔵者などがびっしりと詰め込まれ、研究と真贋判定にはこれらレゾネが基準となるのだから。
カタログ・レゾネは、17世紀末の競売カタログから始まり19世紀末頃には作家毎の総作品目録になり、20世紀には写真図版と詳細な情報と共に真贋判定と美術研究の基礎資料と成った。
カタログ・レゾネが出版された画家や版画家達は美術史に名を残すに相応しいと認められた事になる。
しかし、これは西洋美術研究だけの話で、日本美術の世界にはまだちゃんとしたカタログ・レゾネが存在していない「レゾネ後進国」だ。
例えば知名度が高い俵屋宗達や本阿弥光悦、尾形光琳、与謝蕪村、池大雅など近世美術の巨匠たちでさえ作品集は多くあるが、精査されたレゾネレベルの総作品目録は無い。
西洋美術の合理的な研究方法が明治以降の日本に入っていない訳ではないが、信頼すべき「レゾネ」と言う羅針盤を持たないまま、研究者たちの眼と勘と推察で日本美術研究が進められ、真贋が曖昧な作品が著名な研究者の論文に入り込んでいる場合もある。
私が20代の頃、大阪の老松町にあった版画専門画廊「ガレリア・グラフィカ大阪」で出会ったフランス人画家ジャン・エミール・ラブルールの版画「探し物をする人、Le Fureteur」に一目惚れして彼の銅版画を愛好するようになった。
“Le Fureteur” 1929年, 腐蝕銅版画にビュラン彫、141x105mm
Jean-Émile Laboureur(1877-1943)フランスのナントに生まれ、1895年パリの法律学校に進むが馴染めず、文学、美術の道に進む。私塾アカデミージュリアンに入学し、版画家のルペール(Auguste Lepère)に学び、木版画から銅版画に携わり、ビュラン彫技法によるシャープな線を活かしたアール・デコスタイルのモダンな作風で多くの版画と挿絵本を制作した。
センスの良い省略とデフォルメされた緊張感ある絵に惹かれて何冊かのラブルール挿絵本や単品版画を集めている内に1929年に刊行された彼の版画のカタログ・レゾネを求めた。
ある美術家の作品を気に入り、コレクションし始めると作品の詳しい情報を知りたくなる。そんな時に必要なのが、信頼できるカタログ・レゾネだ。
『ラブルール版画カタログ』古風な飾り罫に囲まれた表紙は、モダンなアール・デコの版画家には少し不似合いなひと昔前のデザイン
題扉も19世紀風のデザイン
限定本に付きものの刊行詳細のページ/紙と版画を変えた4種類の限定版があり、合計525部が刊行された、本書は日本局紙に刷られた40部本で、同じ図柄の違う制作段階の版画が2枚付いている
“L’Écaillère” 牡蠣売り娘
「ビュラン、burin」と言う鑿で細く鋭い線が彫られた銅版画、立体派風の処理が見られる
2枚目には下部にタイトル文字が彫られた第2段階の版画
目次
序文、ラブルールの肖像、彼の人生と仕事、関連書誌、版画カタログ・レゾネ、追加、アルファベット順題名索引
ラブルールについて書かれた書誌を列挙
光がコントロールされた彫版アトリエでの51歳のラブルール
1896年から1929年までのラブルール版画カタログ・レゾネ、彼は1943年まで存命したので、あと14年間分が掲載されておらず、これは全作品目録とは言えないが後の完全レゾネの基盤となっている
このレゾネ最初のページの1番目の図版は以下のような解説、
「1. ドーニエの小屋 (1896)
(H.102×L.138mm)
この作品は19歳のラブルールが初めて彫版制作した版画、ステートは 1 つだけ。何枚か刷られたが、大変珍しいもの。
収蔵: パリ、美術考古学図書館、コンスタン・ロッツ氏、R.ド・ロスチャイルド男爵、原版は破棄された。」
このように作品写真と共に詳しい情報が研究者やコレクターに提供される。
腐蝕銅版画技法で制作していた滞米中の作品
この139番は、ラブルールの版画において大変重要な作品。
「139-Yvette(1916)ラブルールの特徴的な「直彫ビュラン技法」が初めて使われた版画、第一段階の版は3部刷られ、第二段階では4部刷られた後、原版は破棄された。」
研究者と愛好家は、ラブルール初のビュラン彫り版画が、この作品であるとレゾネから初めて知ることができる。
時代と共に作風が立体派風に洗練されて行く、右はレゾネ掲載図版、左は1919年の挿絵本の『娘達のアパルトマン』のオリジナル版画
220-Tableau des Grands Magasin(1921)、161x127mm
都市生活のシンボル、パリの百貨店の歴史と様子を解説した書物の挿絵。
ビュラン彫りの線が心地よい
幾何形態へのデフォルメとシャープな線の交差がアール・デコらしい作品
レゾネの図版を観て、気になる版画があれば古書店を巡り探し出すことが出来る
357-L’Écaillère (1927)198x158mm、ビュラン彫り、この1929年のレゾネの口絵版画として制作された「牡蠣売り娘」、第5ステートまで加筆され最後の版にタイトル文字が彫られ、マダムカミーユ・ベルンハイムのために水彩で彩色した版画があるという
391番1928年の版画がレゾネの最終ページ
1929年の版画カタログ・レゾネを下敷きにし、60年後の1989年〜91年にラブルールの子息シルヴァン・ラブルールの編纂で版画、挿絵、油絵、水彩画を網羅した3巻の完全版カタログ・レゾネが刊行されラブルール研究者と愛好家はこの本を基礎文献として活用している。
1929年版のレゾネを上書きし更に詳細な情報が記載されている
水彩画、油絵など一点物作品の資料もこのレゾネに初めて纏められた
小さな版画「Ex Libris 」の情報もこのレゾネに依って得ることができる
架蔵のさまざまなカタログ・レゾネ
左/抽象絵画の先駆けと言われ近年再発見されたHilma af Klint(1862-1944)のカタログ・レゾネ(2020年)、真中/オランダの画家Jan Mankes(1889-1920)の油絵、版画レゾネ(1927年)、右/ドイツ19世紀末の画家Heinrich Vogeler (1872-1942)の版画作品レゾネ(1974年)
「カタログ・レゾネ」は、1人の美術家の全作品とその生涯の情報を網羅した濃密な小宇宙と言える。それは美術史家の研究の基礎文献であり、狩人のように作品を探索する美術愛好家の地図でもある。そして、レゾネ刊行と共にその作家の研究が深まっていくため美術史の発展にとり大変重要な書物である。
今後、日本美術の研究者により日本の画家達の詳細なカタログ・レゾネが刊行され研究者、美術愛好家達の渇望を癒してくれるのを夢見ている。いつまでも「カタログ・レゾネ後進国」であって欲しくはない。
戸田勝久(とだかつひさ)
画家。アクリル画と水墨画で東西の境が無い「詩の絵画化」を目指している。古書と掛軸とギターを栄養にして六甲山で暮らす。
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