読めもせぬのに|渡会源一


14|妖言抄


2025年の7月5日は、大したこともなく過ぎた。前世紀末のノストラダムス云々も外れた。得てして予言というものは、余り当てにならない。
大河ドラマで岡山天音が好演していた恋川春町に『無益委記(むだいき)』がある。未来の江戸を夢想して当時の世相を風刺した黄表紙である。この手のもので当たり外れをあれこれ言うのは野暮というもの。
そもそも予言は元より、未来予測の類も結構怪しい。20世紀中頃の未来予測では、今の東京の空にはエアカーが飛び交っているはずだった。「2001年宇宙の旅」でも、月面には人類の基地がとっくに常設されている。
春町の『無益委記』は、聖徳太子が残したという予言書『未来記』の捩りである。『未来記』は、大阪四天王寺に保存されているとされ、『平家物語』や『太平記』にもその書名が登場するものの、実物は誰も見たことがない。江戸時代になってからその噂は一般にも流布し、少なくとも春町の『無益委記』のタイトルから多くの読者が『未来記』を連想できるほどには知られていたようである。
日本にはこの『未来記』以外には、永承7年(1052)に「末法」の世が始まるとの言説(最澄の著作が根拠だともされる)が広く流布されたものの、これといってまとまった予言書の類はないようだ。
応和3年(963)に、内裏の柱に虫食いの歌があり、「造るとも またも焼けなん 菅原や 棟の板間の 合はん限りは」と火災を予言した(『帝王編年記』)とされているように、予言の多くは人の手によるものではないとされていた。彗星などの天体現象などから吉凶を判断するということもあったが、これらは予言というより予兆解釈である。
江戸時代になってからは、予言に類する記録が頻出する。とりわけ妖獣や妖怪による予言が目立つ。
代表例が「件(くだん)」である。その漢字表記そのままに、半人半牛のミノタウロスのような幻獣で、突然出現して必ず当たる予言をするが、予言するとたちどころに死ぬとされる。早い出現記録では宝永2年(1705)のものがあり、翌年から豊作が続いたとある。天保7年(1836)には丹後倉橋山に現れ、慶応3年(1867)には、出雲国で産まれ、「この年は豊作となるが、悪病が流行する」と予言し、3日で死んだと云う。

天保7年の「件」出現を知らせる瓦版
冒頭は『無益委記』より、「未来」の江戸の通人たち

寛文九9年(1669)、越後福島潟で「亀女」が豊年と疫病の流行を予言し、「自分や自分の絵を見る者は、難を免れる」と告げたと云う。「亀女」(「海出人(うみでびと)」あるいは「人貝(ひとかい)」)は嘉永2年(1849)にも出現している。

錦絵に描かれた「海出人之図」

文政2年(1819)、肥前の平戸浜で「神社姫」が、豊作と悪疫流行を予言。

瓦版に描かれた「神社姫」

文政10年(1827)、越中立山で薬草採りをしている者が、山中の薬種塚で「くだべ(くたべ)」と名乗る人面の怪物に会った。くだべは「これから数年間、疫病が流行し、多くの犠牲者が出るが、自分の姿を描き写した絵図を見れば、その者は難を逃れる」と予言した。この「くだべ」は「くだん」のバリエーションだろう。

立山の「くたべ(くだべ)」を記録した2種類の絵図」

天保14年(1843)、肥後天草の山中で3本足の化け物が、災厄を予言。弘化元年(1844)、越後の浦辺に「海彦(アマビコ)」が出現、「この年のうちに日本の7割の人が死ぬ、ただし自分の姿を描いた絵図を見た者は、死を逃れることができる」と予言。翌年、恐山で荒天が続き、黒雲の中から「飛龍」のような幻獣が現れ、豊年と悪疫流行を予言。さらにその翌年、肥後の海中に「アマビエ」が現れ、病の流行などを予言した。その姿は人魚に似ており、口は嘴状で、首から下は鱗に覆われ、3本足だった。「アマビエ」は「アマビコ」の誤読(あるいは誤写)だと思われる。

『越前国主記』の「アマビコ」(上)と「アマビエ」

江戸期の多くの例では、豊作と疫病流行を予言して、「疫病を逃れるためにはその姿を描いた絵図に効果がある」とある。実際にかなりの絵図が残されており、どうも商売の臭いがする。疫病や災厄で脅しておいて、金儲けをするというやり口は、今も昔も変わらないのである。

 

渡会源一(わたらいげんいち)

東京都武蔵野市出身。某財団法人勤務のかたわら、家業の古書店で店員見習い中。


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