読めもせぬのに|渡会源一
24|図会の人
秋里籬島自筆の「秋里家譜」より
前々回に予告したように、今回は秋里籬島(あきさとりとう)を紹介する。前々回の『京童』の著者、中川喜雲と同じく俳諧師らしい。京都の人とあり、生没年は不詳である。『都名所図会』(1780)が評判を呼んで、その後の名所図会ブームの魁になった。本人も、『都花月名所』(1793)、『和泉名所図会』(1796)、『伊勢参宮名所図会』(1797)、『東海道名所図会』(1797)、『摂津名所図会』(1798)、『五畿内名所図会』(1798)、『都林泉名勝図会』(1799)、『河内名所図会』(1801)、『木曽路名所図会』(1814)、『近江名所図会』(1815)等々、次々に「名所図会」を編纂している。絵師の竹原春朝斎(たけはらしゅんちょうさい)とのコンビで制作した本が多い。但し籬島本人も絵を描くし、『東海道名所図会』では、円山応挙、土佐光貞、北尾政美をはじめ、約30人の絵師を起用している。
『都名所図会』より「清水寺」
『都名所図会』より「一条戻橋」
『木曽路名所図会』より「下諏訪秋宮」
『木曽路名所図会』より「武田勝頼の故事」
籬島は、実地を踏んで名所図会を制作しており、絵もそこそこリアルではあるけれど、改めて本文を読むと「臥遊」、即ち「居ながらにして、遠い場所に自らを遊ばせる」という言葉が強調されている。つまり籬島の名所図会も、旅行ガイドではなく、未知の場所に想いを巡らせる為の本だったようだ。絵と名所の紹介に加え、自作の和歌や俳句や漢詩を随所に鏤めることによって、果たせぬ旅情を掻き立てる趣向になっている。
籬島はまた、名所だけでなく『源平盛衰記図会』(1794)、『保元平治闘図会』(1801)、『本朝年代記図会』(1802)、『前太平記図会』(1803)、『親鸞聖人洛陽御旧跡(二十四輩順拝記)』(1806)のような歴史書、歴史物語の類の「図会」も拵えている。兎に角何でも絵解きしたかった人のようだ。江戸の大伴昌司みたいな存在だったのかもしれない。
『本朝年代記図会』より「天岩戸」
『本朝年代記図会』より「良弁上人、幼少期の故事」
『源平盛衰記図会』より「平清盛、福原で怪異に遭う」
『源平盛衰記図会』より「屋島での那須与一」
意外なところでは、大内裏の解説書『京之水』(1841)や作庭マニュアルの『石組園生八重垣伝(いしぐみそのうやえがきでん)』(1827)等と云うものもある。後者は随分前から私の手元に復刻版があったのだが、最近になってその著者が秋里籬島であることに気がついて驚いたものである。秋里籬島の名はもっともっと知られてもいいと思う。
『京之水』より「大内裏の図」
『京之水』より「羅城門」
『石組園生八重垣伝』より「垣」
『石組園生八重垣伝』より「石組」
何しろ安藤広重の『東海道五十三次』シリーズにも、籬島の『東海道名所図会』からの引用と思われる絵が何枚も含まれている。もしかすると『東海道五十三次』は元より、葛飾北斎の『富嶽三十六景』も、秋里籬島無くしては存在し得なかったのかも知れないのだ。
広重『東海道五十三次』の「池鯉鮒」と『東海道名所図会』の「池鯉鮒駅」
広重『東海道五十三次』の「大津」と『東海道名所図会』の「走井」
渡会源一(わたらいげんいち)
東京都武蔵野市出身。某財団法人勤務のかたわら、家業の古書店で店員見習い中。
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