やるまいぞ、やるまいぞ|遠藤利男


4|好奇心から欲望へ、毒から美味へ。


 さて、狂言「附子」(ぶす)です。砂糖を巡る主・従の争いです。
 飽食の、しかも糖分抑制の現代、読者の殆どが信じられないでしょうが、砂糖は室町時代には、ごく少数の貴顕と京都町衆の中でも富裕層のみが嗜好する希少なものだったのです。そして、太郎冠者たち下人にとっては、かすかに噂に聞くのみの麻薬のような存在であったのです(昭和一桁生まれで、第二次大戦とそれに続く飢餓時代を経験している私のような世代にとっては、「砂糖」は金では求められない貴重なものでしたが、そのことについては、後刻語るでしょう)。
 ということで、「砂糖」と言っただけで、観衆の想像力が「む、む」と舞台に向けて一斉に動き出すトリガーにはなりませんが、皆さんの心の中で、それに代わる希少な珍味を探してください。
 さて主(あるじ)は、最近この高価な砂糖を手に入れ密かに賞味し、優越的な喜びを味わっていました。彼は数日家を留守にすることになり、太郎冠者・次郎冠者を呼び出し、留守居を命じます。そして、その砂糖を盗み食いされないよう器(舞台では葛桶というの使う)を示し、これには「附子」といって、それから立ち上がる風に当たってさえ死んでしまうような猛毒が入っている。事故が起こらないよう、二人してしっかり監視しながら留守居をしろと命じます。太郎冠者が、主は猛毒だと言いながら器を軽々と扱っているのを不審に思い質問すると、「この『附子』という猛毒は、人を見る。主に向かっては毒を出さず優しいのだ」と言って出かけます。この答えがこれからの「おかし」の発火点です。人を見て差別する毒、いったいなんだ。疑問は好奇心へ。すると、さっと毒の風が吹いたように感じます。二人は、思わず立ち上がり、器から遠ざかり橋懸りの半ばまで逃げます。遠ざかってみるとかえって、好奇心は強くなります。太郎冠者はどうしても、「主にやさしい毒」を見てみたくなります。次郎冠者は危険だと押止めますが、扇で毒気を打ち払いながら近づけば大丈夫だろうと、二人であたりの気を払いながら器に近づき、先ず器の蓋を縛りつけている紐を解いて、さっと足早に橋懸りまで逃げます。恐るおそる振り向くと何も変化が起こらない。良しと、二人は同じようにそろりそろりと忍び足で器に近づき、今度は蓋を取ると又急いで逃げ帰ります。又太郎冠者が近づきます。中を覗きます。あった、黒いどろどろとしたものが。これが毒か。逃げ帰ります。すると、次郎冠者も毒を見たくなります。見に行きます、見て逃げ帰ります。ここまで近づいても、主の言う毒気は立ち現れません。太郎冠者はとうとう、その「黒いどろどろ」を舐めてみたくなります。次郎冠者が懸命に引き留めるのを振り払い、太郎冠者は器に近づき、舐めてしまいます。甘い。これはもしかすがると、サトウ。太郎冠者はがつがつと「黒いどろどろ」を食べ始めます。慎重派の次郎冠者も加わり奪い合うようにして皆食べてしまいます。
 ここで一区切りです。ここまで文章であらわすには一番難しい人間の身体的行動と心の動きについて長々と書いてきましたが、これが、古典である狂言と現代をつなげる重要なシーンと思うからです(これから先はご存知のとおりです。また、連載一回目に簡単な粗筋を記載していますのでご参照ください)。
 太郎冠者・次郎冠者が毒風を避けた橋懸りの二の松あたり(ほぼ真ん中)と、舞台中央先端に置かれた「附子」壺との間は、約10数メートル。往復すると20メートルを越えます。逃げて帰るときは速足。それを四回繰り返すのだから、合計80メートルから100メートル近い障害物競技をしているようなエネルギーを要します。現在の上演ではこの曲は単純明快な故か、非常に若い演者が型で楽々と演じているように見えます。しかし、生の心身の中身はけっしてそうではありません。
 私ごとですが、私は70歳のころ、友人に誘われてこの次郎冠者を演じたことがあります。高齢であっても、型も内容も単純明快、やすやすと演じられると思っていたのですが、見るとやるとでは大違いでした。主の禁止・規制を超え、毒かもしれない恐怖のバリアーを超え、「附子」に近づきそして逃げ帰るのを四回続ける。稽古してみると、えっ、これは陸上競技の障害物競走だ、でした。そして、ここが大事なところです。老体を励まし、息せき切りながら回を重ねて往復するごとに、なんとしても障害を越え、主が誇らしげに独占する、あの得体のしれない「附子」というものを見極めるぞという生々しい欲望が漲ってきたのです。その時、この心と身体の相互関係が、狂言という、室町時代には200年にわたってナマ即興で人々を笑わせ続けた芸能の基底にあるのだと、はっと気づいたのです。それは今も鮮明です。
 ところで、観客の心身はどうなのでしょうか。観客は、演者の生き生きとした行動・息遣いを脳の中で追い、予測・期待から、欲望の成就を願うようになっていきます。それはあたかも、サッカー競技で、ボールを持った選手が厚いディフェンスをかいくぐり瞬時に変化しながらゴールに向かって突き進む動きを予測・期待を込めて追っている私たちです。

 かすかな謎から好奇心が生まれ、体が動き出す、欲望が誕生する、規制・障害に対して欲望が膨張・爆発するなどという人間の心身の図式は、最近の認知科学の基本として、やすやすと解けるでしょうが、解いたと言って人間は欲望を滅することはできません。
 原子核に対する知的好奇心から出発し、無限のエネルギーを手に入れたい欲望から、人類を絶滅し得るほどの核兵器を開発・保有するに至り、更にそれを脅しに使う現代の人間を、室町時代の狂言のように、陽気に笑いたいものです。

追記:狂言内容の記述は、主として『能狂言 大蔵虎寛本』(岩波文庫)によっています。舞台の表現は、私の記憶です。