やるまいぞ、やるまいぞ|遠藤利男
5|破転、反転また逆転
まだ「附子」の話です。前回、太郎冠者の膨れ上がる欲望の話から、現代の欲望につながってしまい、舞台の結末がついていませんでした。劇には、始まりと終わりがなければなりません。
少々繰り返します。これは「附子」という毒だ、その風に当たってさえ人は死んでしまうと言われて、主(あるじ)に留守番と「附子」の監視を命じられた太郎冠者・次郎冠者。その不審物質を確かめたいという欲望もだし難く、目には見えない毒気を「煽げ、あおげ」と扇で拡散しながら、苦心惨憺近づいてみる。と、その危険物質は毒ではなく、食べたこともない、甘い物質、砂糖であった。毒が甘い。ここからが、この狂言が「狂」であることを示す、重要な展開部になります。
副題は『破転、反転また逆転』としました。
「破転」という言葉、私の見た限り、辞書にはありません。造語です。
白川静氏の『字通』によれば、「破」は、「破る、とける、石の表面が剥離し、割れる」の意味を持つとあります。その先に「序破急」の「破」が浮かびあがります。自然、生命、そのうえ美も内的エネルギーが高まり、その皮を破るときが来ます。その「破」です。
一方、「転」は「起承転結」の『転』。車のように回転する、という意味から、事態・物語・詩が、想像もしない方向に転換する、或いはそのような劇的転回を余儀なくさせられる原因の発見に至るという、劇・物語などに備わる構造、です。
『破転』は、この次元の違う二つ語を結び付けた、多分、私の造語です。
余談になりますが、「起承転結」は古代から中国にもあった思想ですが、特に演劇における「転」については、紀元前4世紀のギリシャで、アリストレスが「詩学」において前5世紀のギリシャ悲劇を論じ、その核心に「逆転」と「発見」を置いて以来、演劇を論じる重要な要素になっています。しかも、この二つが極めて接近して、望むべくは、同時に起こるのが、最も劇的と論じています。それ以来現代にいたるまで、演劇における「転」論が盛んです。重要なのは何を発見するか、ということです。日本の劇作家木下順二氏は、「自己否定」を「発見する」、核にして、悲劇論を展開しています。
狂言に戻ります。主が大切にする「附子」いう名の毒を見てみたいという欲望と行動は、毒という皮を破り、はぎ取って、実は甘味な砂糖だと、太郎冠者たちに「発見」させてしまいました。発見したのは「現世利益」です。自己否定ではなく、快楽です。これが狂言の『破』です。
と同時に、主の嘘が明らかになります。主の権威の崩壊、『転』です。大体こういうことは、一挙に激しく起こるのが「笑劇的(衝撃的)」です。この衝撃を表わすのには『破転』という語が適切に思えたのです。
さて、その結果、事態はまた一転します。これまで、主の命令と毒に立ち向かうストレス下で蠢いていた冠者たちの欲望のエネルギーは、一挙に食欲に『反転』し、主が独占してきた砂糖を、奪い合いながら、みな平らげてしまいます。器の中は空です。主の権威は無です。そして二人は歓喜です。しかし、奴隷同様の下人である太郎・次郎冠者には、主からどのような罰が加えられるのか。体罰か、売り飛ばされるか。
一瞬、太郎冠者は案じます。
見ると、部屋の「しつらえ」に、中国渡来の掛け軸と、同じ中国渡来の天目茶碗があります。太郎はこれを破壊しようと提案します。それこそこれは、「このあたりに住まいする」富裕層・町衆の間に流行し始めた茶会で、金力と教養力を誇り合うための象徴的道具です。次郎冠者は尻込みしますが、太郎冠者は無理やり参加させます。
「ぐわらりちん(室町時代に流行したオノマトペ・擬音語)」「微塵になった」。お宝の破壊も、気持ちの良いものです、では、終わりません。
太郎冠者の知恵の使いどころはこれからです。
二人は、ウソ泣きをして、主の帰りを待ちます。帰ってきた主は破壊された「お宝」を見て驚愕とします。太郎冠者は泣きながらこう言い訳をします。留守番の退屈まぎれに二人で相撲を取った。投げ合って転んだ拍子に、あのお宝を壊してしまった。死んでお詫びをしようと「附子」を食べた。しかし、全部食べても、死なない。
砂糖を毒だと言って禁じた主の「嘘」に対して、死んで詫びようという「嘘」を武器にで、「逆転」を図ったのです。最後は流行りの数え歌のモジリで終わります。「ひと口飲んでも死なれもせず、三口、四口、皆まで飲んでも、死なないことは、めでたいこと、なんと身体の丈夫なことか」
この終わり方を、現世利益を求める太郎冠者の勝利宣言と取るか、和解提案ととるか。演者によって、演じ方によって、又それを受け取る観客一人ひとりにとっても、違ってくるでしょう。
< 4|好奇心から欲望へ、毒から美味へ。 を読む