やるまいぞ、やるまいぞ|遠藤利男
6|『棒縛(ぼうしばり)』、棒と酒と、そして破転
私が1963年、縁あって大蔵流狂言の稽古を始めた時、先ず習ったのは、小さな謡、小謡「盃」でした。
「盃に むかえば 色もなお赤くして 千歳の命を 延ぶる酒と聞くものを きこしめせや きこしめせ 寿命久しかるべし」
短い、しかも簡明な祝い唄でした。師は大蔵流宗家・二十四世大蔵弥太郎(後に二十四世大蔵弥右衛門。)酒を飲む喜びが静かに溢れてくるその謡いの響きを聴きながら、「千歳の命を延ぶる酒」を飲むという、まるでコマーシャルソングのような謡から稽古を始めるのは、さすが狂言、これは入門の祝い唄かと、感じ入っていました。
さらに稽古が進むと、「餅酒」という、やはり酒を讃える小謡で舞う小舞の詞に出会いました。
「そもそも酒は 百薬の長として 寿命をのぶ その上酒に 十の徳あり」と飲酒の徳を並べて更に讃えます。しかも、この歌の冒頭には、銘酒の名らしい言葉が並べられ、その一つに実在が分かっている「柳の酒」という、将軍や宮廷人への贈答用に使われていた高級酒の名前が唱えられます。醸造販売主は京都五条坊門西洞院に実在した「柳屋」です。今で言えば酒屋と結託したコマーシャルか、或いは流行の先端の言葉を入れたナウい表現か、ともあれ狂言はその時代を強く映しているのだと感心したものでした。
余談になります。室町時代、酒の醸造法は改良され、「諸白」という清酒に近い酒も醸造され、貴顕であろうと町衆であろうと、自宅・贈答用は勿論、宴会があれば大量消費し、京都の酒屋は増え続け、350軒近くに達していたといわれています。しかも、彼らはその利益を利用して高利の金融業(土倉)を兼業し、その資産の膨大さは当時の経済の重要な部門になっていました。それ故、足利義満以来、幕府はこの酒屋群に税を課し、幕府の重要な財務基盤としていましたが、この「柳屋」からの税収は総酒屋税の24%を占めていたというのですから、「柳の酒」が如何に大手名門酒屋の酒であったか分かります。それを小謡に謡いこんでいたのです。
(これ以上、室町時代の酒屋のことに立ち入ると、今回のテーマを見失うので、又後日、改めて語らせてもらいたいと思います。)
元に戻ります。「盃」から始まった狂言稽古が進むにつれて、狂言に酒を酌み交わし、謡い、舞う、ことがいかに多いか、それも、コミュニケーションのツールとしてだけではなく、展開の重要な契機、「序破急」の「破」を担っているということが分かってきました。
そこで「棒縛」です。上述のように、酒は将軍から町衆にいたるまで、広く楽しまれる妙薬になっていましたが、その下人(実は奴隷に近い使用人)である太郎・次郎冠者たちにとっては自腹で楽しめるものではありません、宴会の残り物や、遠方への使い走りの駄賃の一杯や、使い先の主のもてなしの一杯、などで楽しむ程度です。ですから時折、主の留守を狙って、蔵の中の酒壺から盗み飲みをする始末です。一方、それを知り、不愉快に思っていたこの家の主は、酒独占のため、ガバナンスを発揮しようと決意します。これがことの発端です。留守にあたっては、「附子」のように口先のルールだけでは実効性がありません。物理的に太郎・次郎冠者の手を縛り上げ、酒を酌めないようにする。ルールの顕在化、モノ化、実力行使です。それには、二対一では主は負けてしまうから、二人を分割統治する。これも統治者のよくやる知恵です。主は太郎冠者を呼び出し、二人の隙間を利用し、次郎冠者を戒めるために協力させます。太郎冠者は提案します。最近次郎冠者は棒術に励んでいる。それを演じさせて、夢中になっている間に、主と二人で取り押さえ棒に腕を縛り付けてしまおうと。次郎冠者は予想どおり棒を持って現れ、得意になって演じているところを、主と太郎冠者は取り押さえ,棒に腕を、磔刑のように、縛り付けてしまいます。次いで主は、あろうことか味方にしていた太郎冠者を取り押さえ、徒刑人のように後ろ手に縛り付けてしまいます。二人は身動きが取れません。太郎冠者は裏切られたと気づきます。しかし主のガバナンスは成立です。主は悠々と出かけて行きます。さて、こうなると二人の酒に向かう欲望は立ち上がり、いやがうえにも膨らんでゆきます。この規制と膨らむ欲望の衝突が私の言う「破転」の原動力です。
二人は不自由な身体でも手の指と足は動くことを発見します。次郎冠者が立ち上がり、棒に縛られた腕の指先だけで倉の重い戸を開けようとします。開きました。甕から酒の匂いが立ちあがります。次郎冠者は指先で手杓をつまみ、酒を酌みます。しかし、棒に邪魔され自分の口には運べません。そこで太郎冠者に飲ませます。「む、む、うまい」。主の暴力的規制を越えて飲む酒の、経験のない旨さの発見。また、自分たちの新しい身体能力の発見です。そして、腕を使えない、分割統治されていた二人が、互いの身体の協力により、『棒縛』というバリアを突破できると発見します。
これ以後の二人のアクロバチックな身体行動・演戯は、是非舞台か映像でご覧いただきたい。私の言語表現ではこぼれるものが多すぎます。
二人の酒宴は盛り上がります。太郎冠者は謡い、次郎冠者は舞いを試みます。腕が案山子のように棒に縛り付けられていても、舞えるではないか。新しい舞の楽しみを発見します。新しい芸能誕生とも言えます。二人はさらに盛り上がります(この棒縛り舞は、従来の猿楽芸からの転用とする説もありますが、この舞台では、今ここで生まれたことにしておきます。)
主が帰ってきて、呆れて二人の後ろに立ち尽くします。その姿が、二人の持つ大盃に満たされた酒に映ります。これは、酒を飲まれまいという主のケチな執心が幻影となって現れたのだと、二人はさんざん主を揶揄します。主は怒り、二人の前に出て、彼らを打擲しようとします。それに対し、次郎冠者は両腕に縛り付けられた棒を「やっとな、やっとな」と、棒術のように振り回し主に打ち掛かり、逃げる主を更に追います。「ゆるいてくれい、ゆるいてくれい」と逃げるのは 主です。ですから、この曲には「やるまいぞ、やるまいぞ」はありません。主が自分の権力を顕在化しようとして使った『棒』に、逆に追い込まれて、この喜劇は終わります。
アリストテレスは最良の悲劇は、「逆転と自己否定の発見」であるといったが、我が喜劇・狂言は、「破転と自己能力の肯定的発見」であると言えます。
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