やるまいぞ、やるまいぞ|遠藤利男


7|新しい芸能誕生


 このコラムも回を重ねて、7回目になりました。前回の終わりに「アリストテレスは最良の悲劇は、『逆転と自己否定の発見』であるといったが、我が喜劇・狂言は、『破転と自己能力の肯定的発見』であると言えます。」などと記して、「狂言」の現代人的、即ち「わたくし」的読み解きも、これでどうだ、と一区切りついたような気分になっていましたが、一方このように抽象化すると分かりやすいが、「狂言」にとって大切な「身体性」が、何処かに消えてしまうようにも思えます。注意して進めましょう。
 また「附子」「棒縛」を取り上げるのは、小・中学校の教科書に載っているほどのやさしい曲だから、などと言っていましたが、ここまで見てくると、この曲は、「狂言」という「喜劇」の本質を凝縮していて、更に現代に通じる普遍性のある「中核的」曲なのだと気づきました。折に触れ、この二つの曲が登場するかもしれませんが、「中核的」だからと思ってお読みください。
 ところで、演劇は、舞台を観る人がいて、その観る人の心身に何かが起こる、それと舞台のパフォーマンスとの総体で演劇です。どよめくような笑いも、クックッと忍ぶ笑いも、演劇の担い手です。(「笑い」が心身にどのような良い効果をもたらすかは、最近の認知科学で解明されていますから、AIを活用して是非ご覧ください。)
 そこで「棒縛」の場合、客席で私の心に起こったことを見てみましょう。
 盗み酒をしないように腕を棒に(次郎冠者)、手を後ろ手に(太郎冠者)縛られた二人は、主が独占したい酒の旨さを想像し、何とかして、酒を飲めるようにしようと身体を動かし、あらゆる可能性を試します。この二人の心身の動きを追っている私たち観客は、二人の欲望に否応なく捲きこまれてゆきます。「上手くゆけ!」われわれ観客の心は思わずこう叫んでいます。これは現在でも世界中のサスペンス映画が多用している、絶体絶命の危機からの、また刑務所などの閉鎖空間からの脱出劇の原点です。
 そしてここで重要なのは、身体の不自由とは逆に、心がそれを乗り越えて自由になってゆくことです。自由な心はあらゆる可能性を求め身体を動かします。それこそ「自己肯定」に支えられています。私の心はそれと同期します。自己肯定に染まってゆき、今までにない自由を感じます。そして得た酒は常とは違うものです。極上の上に極上です。飲んでもいないが、私の舌にはそう感じられます。いざ、宴だ、歌い舞おう。しかし、手、腕は棒に縛り付けられている。それならば、棒もろともの新しい舞いにしてしまおう。拘束が新たな創造力を生みます。私は、思いもかけない鮮やかで奇妙な舞いを笑います。新しい芸術・芸能誕生の仕組み秘話かと思わせます。
とともに、現代の様々な圧政下での芸術家の活動と作品が、心の底にふと浮かび上がるのを感じます。
 そして最後は、主を、彼自身の武器・棒で逆に舞台から追い出してしまいます。万歳、大笑いです。
 と同時に、武器のないベトナムゲリラが圧倒的に優勢なアメリカ軍を、彼等から奪った武器で、ベトナム半島から追い落としてしまった映像が一瞬思い浮かびます。
 室町時代からいきなり現代まで繋がって、笑ってしまう。昭和世代の心の動きは何とも奇妙です。ただし以上のことは、舞台を笑って観ていた時にすべて同時に起こったことではありません。その後の日常のなかで、舞台のおかしさとともに、今描いたようなシーンの一つ二つがふと浮かび上がってくるのです。このような心の動きを抱えて、「欲望の自己肯定」を笑いながら観ていられるのが、古典喜劇の面白さの一つと言えます。

注:この曲の終わり方は、大蔵家の虎寛本(1793年・寛政四年)に依っているが、狂言最古の筋書きだけの記録本・所謂「天正本」(1576年・天正六年)では、主が太刀を抜いて、二人を追い込むことになっている。
トップ画像は『春日若宮御祭礼略記』より「後日御能之図」。後日能(ごにちののう)は、奈良若宮神社の御祭が終った翌日、12月18日に奉納される能狂言。