やるまいぞ、やるまいぞ|遠藤利男
8|室町時代、人々は、即興の「おかし」で、大笑いしていた
能・狂言を紹介するときにしばしば「650年の伝統を持ち今も生きる、ユネスコ世界無形文化遺産でもある演劇」という言葉が使われます。伝統と聞いただけでも重苦しいのに、650年と言われると、室町時代も飛び越しそうな彼方です。しかも演劇は、固定された茶碗や絵画ではありません。ものの受け渡しではありません。その時代時代の演者が受け取った無形のものを、咀嚼し、あるいは編み直し変容させながら現代に生かしているのです。ですから、私たちが能楽堂に行って出会うのは、伝統そのものではありません。伝統という薄絹を纏った、人間喜劇です。笑って人間回復をするワンダーランドと思ってもよいのです。
その初期、狂言らしい形をとり始めた鎌倉時代の中頃からを考えると、狂言は200年以上にわたって、台本なしで(筋、構成の軽い打ち合わせはあったとしても)、即興の、その日、その場所の、ネタを織り込んだ「お笑い・おかし」の、はるかに軽やかな、生きの良いものであったのではないか、と私は想像しています。今で言えばインプロヴィゼーションです。演者の心身の全力を挙げての表出です。そして、観衆はそれに乗り、どよめくような笑いで楽しんでいたはずです。
それを想像させる良い記録があります。「公家人疲労ノ事」事件です。1424年。四十歳で『花伝書』を書いた世阿弥は六十歳になっていましたから、猿楽の「能」は完成期を越え、一方「狂言」もその時代時代の欲望のありようを捉えた即興新作と再演を繰り返し、レパートリーを増やしていたと思われます。
矢田猿楽はその年、伏見御香宮で演能を行います。その時狂言は、その地域の支配者であった御香宮の困窮疲労ぶりを「おかし」風味に戯画化し、しかもその居住地で演じ、大笑いを取ったのです。楽頭は宮家に呼び出され、厳しく叱責されたと記録(『看聞御記』など)にあります。楽頭は内容を予め把握しておらず、いや、即興だから把握できない状態であったと思われます。また、「おかし・狂言」方からすれば、一発で観客の大多数に笑いを惹き起こせる素材は、「高貴な、その地の支配者をその場所で滑稽化する」という、まさにこれだったのでしょう。また当時、比叡山延暦寺、仁和寺でも、狂言が同様な問題を起こしているという記録もあるのは、「猿楽のおかし」たちの間に「ご当地素材の即興のノウハウ」として流行していたのかもしれません。
これに対して、「幽玄」を目指す世阿弥はどう考えていたのでしょう。世阿弥はその後『習道書』を著し、能楽を学ぶ心構えを語っています。その中で、狂言に言及して、「狂言の『おかし』は、必ず多数の観衆を笑いどよめかせる。これは、野卑だ。内に楽しみを含んでいるような笑いこそが、面白く嬉しいと心に深く感ずる。」と言っています。そっと微笑み、心で「ふふふ」と笑うような笑いが極上で、観客多数がどっと笑うような笑いは野卑だということです。そのようなどよめきの中にシテの怨霊は出て行きたくなかったのでしょう。
世阿弥が、このような批判を書き留めるということは、多くの狂言が、「野卑な笑い」に満ちていたのだと私は想像します。
(ついでながら、世阿弥は同じ文のつながりで、狂言役者・おかしの最上位と考えるものについてこう語っています。「生まれながらにして、観客に愛されるペーソスのある愛嬌を備えた芸人は、冥加である」。ごもっともです。世阿弥はその例として「昔の槌太夫」を挙げ、その狂言は「幽玄の上の部」であると語っています。私はふと、亡き四世茂山千作さんを思い浮かべました。)
さて、即興の狂言に戻ります。「公家人疲労ノ事」は大笑いを取りましたが、厳しい叱責にあい直ちに廃曲したのでしょう。残っていません。当時このように、一度の上演で終わったものは、かなりの数に上ったと想像されます。
一方、好評だった「即興狂言」の粗筋は、「おかし」の身体記憶に残され、機会があれば引き出され、客の前に晒され、即興によって更新修正され、また記憶倉庫にもどされ、蓄積され洗練もされました。この即興の200年こそが、現代に生きる狂言の核をつくったと私は思います。
「公家人疲労ノ事」から約150年後、天正年間に入り、当時畿内で活躍していた「おかし」たちの身体に記憶として保持されていた狂言の粗筋を、筆記記録する人が現れました。彼が何者で、何のために、どのような方法で実施したかわかりませんが、天正六年(1578年)の奥付がある、いわゆる「天正狂言本」です。室町時代の狂言の姿、時には本質を僅かな文字で伝える唯一の記録です。これについては、今後しばしば取り上げることになると思っています。(例は、7回目の最後の欄外の「注」をご覧ください。)
この頃、猿楽を長年保護した室町幕府は衰弱、天正元年には滅亡。猿楽の保護者は、応仁の乱以後は各地の戦国大名たちに替わっています。天正四年、信長はあの輝かしい安土城に入り天下布武をなしとげるかに見えましたが、十年には本能寺で光秀に討たれています。激動の時代です。
この時代に、口伝えの、即興の、「おかし」を筆記して残した人とは、いったいどのような人物だったのか、様々な人間像が浮かんでは消えます。
トップ画像は「天正狂言本」より「目録」の一部(野上記念法政大学能楽研究所蔵)
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