書架の園丁|橋本麻里

1|書物の香り


 

コレクションではなく、普通に「読む」本として、江戸時代の和書から明治、大正、昭和、と多数の古書が書架に置かれていると、家の中の空気もうっすら古色を帯びることになる。黴臭さとは別の、時代も素材も異なる紙とインク、かつてその本が置かれていた環境の余香とが混ざり合った、不思議な匂いだ。

図書館や古書店にも、それぞれに固有の匂いがある。一見同じようで、1冊1冊来歴の異なる本が集まると、オーケストラに個性が生じるのと似た現象が起こるらしい。そういえば自らも稀覯書のコレクターとして知られるある研究者から、特定の時代・地域の紙に含まれている物質の有無、即ち古書の真贋を、匂いで判断する場合があると聞いたことがある。「僕も本当のところはよくわからないんだが、パリの古書店で開いたページの匂いを嗅いでいたら、店主から『お前はわかっている』と言われ、上顧客として扱われるようになったよ」。

「書物の香り」は調香師の心も疼かせるらしい。そうと謳った香水は何種類かあるが、命名も含めてもっとも成功しているのが、ブエノスアイレス生まれのフレグランス・ブランド「FUEGUIA1833」から発売され、同社を代表する名香としても知られる〈Biblioteca de Babel〉だろう。およそ言語で表現されたものすべてを収める図書館の、無限に続く回廊で生涯を終える司書たち……。ご推察のとおり、アルゼンチン出身の作家で、同国国立図書館長も務めたホルヘ・ルイス・ボルヘスによる短編小説『バベルの図書館』に想を得た香りだ。

硬い針葉樹を材につくられた書架に並ぶ、贅沢な革表紙の書物。さざ波が寄せるように縁から黄変が進んだ柔らかな紙の余白に、虫こぶが原材料のインクで神経質そうな文字が書き込まれている。東方との交易について書かれた本を手に取り、ソファに身を沈める。サイドテーブルにウィスキーのグラスを置く。どこかで時計の針が時を刻み、ダマスク織のカーテンの隙間から午後の光がこぼれている─。

これはいま、私の手首で香っている〈Biblioteca de Babel〉が呼び起こすイメージだから、スモーキーな革や針葉樹、シナモンなどの要素から構成される香りが、あなたにどんな「図書館」を思い描かせるか、興味のある方は試してみてほしい。

だが、降り続く雨の中で植物たちが日々色を濃くしていくこんな季節には、書架という庭の緑を鮮やかにしたくて、また別の香りの蓋を開ける。それが南フランスで生まれた「MAD et LEN」のポプリオイル〈SPIRITUELLE〉だ。早朝、冷たい露を含んだ草むらに踏み込み、戯れに茎を折り、葉をちぎりながら進むうちに香り立ってくる、野にさんざめく青草の、媚びのない匂い。他で嗅いだことのない野性的なミントの主香は、室内に薄緑色の靄をかけるかのように感じられる日もあれば、埃を拭い去った澄明さとして感じられる日もある。〈SPIRITUELLE〉には肌につける香水もあるが、人の体香が混ざるとあの圧倒的な涼感が薄れるため、結局いつも天然の樹脂や半貴石に含ませ、室内に香らせるオイルを選んでしまう。

嗅覚以外の視覚、聴覚、味覚、触覚などの情報は大脳新皮質で処理され、感覚が生じるのだという。一方、嗅覚情報は大脳で情報の解析を行う前に、脳の原始的な部分で感知され、体内で反応が起こる。要するに、考える前に感じてしまうわけだ。香りを表現する語彙が少なく、「甘い」「温かな」「柔らかい」「明るい」「重い」といった、他の感覚器で確立された言葉で代替される場合が多いのは、そのせいらしい。
庭に傾けるにせよ本へ寄せるにせよ、不寛容、といえるほど私の香りのストライクゾーンが狭いのは、言葉で捉えがたいものにはいっそう惹かれずにいられない、「書架の園丁」ゆえの性癖なのかもしれない。

 

橋本麻里(はしもとまり)

日本美術を主な領域とするライター、エディタ ー。公益財団法人永青文庫副館長。金沢工業大学客員教授。新聞、雑誌への寄稿のほか、NHKの美術番組などを中心に、日本美術の楽しく、わかりやすい解説にも定評がある。多くの展覧会企画を手掛ける中、著書には「かざる日本」(岩波書店)など多数。


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