川で猿投を拾う|橘 岳


2|初めての土器 土師器


僕達にとっての初めての土器は土師器だった

 その川に初めて連れて行ってくれたのは、焼物好きのAさんという友人で、陶芸家の友人を連れ立ってのことだった。何度か同じようなメンバーで川歩きを繰り返したが、いくつかのちょっとしたカケラを拾っただけで、これというモノは見つからなかった。河原は広く、夏の太陽は容赦ない。おまけにブユという不快な虫(刺されると痒い)にたかられる。状況を打開すべくというわけではないのだけれど、何度目かの川歩きに妻が参加することになった。「川で土器みたいな古いものがあるなんてすごいことじゃない?」妻はこの日に備えて土器が砂から顔を出す様子を何度もイメトレしていたらしい。冒頭の写真の土器は彼女が参加したその最初の川歩きで、彼女自身が見つけたものだ。妻は他にもかなり形の残る土器を拾い上げ、この日は彼女の独壇場であったように思う。彼女の探し方はズンズン先を行く男たちとは対照的に、丁寧で遅々として進まず、遠目からは汀で佇んでいるかのように見えることもあった。土器を持つ妻の姿は、何かのきっかけで特殊な才能を開花させてしまった人のように見えた(子供の頃から路上の小銭を拾うのがうまかったらしい)。余談だが、最近小学生の女の子が河原で日本で2例目という、非常に珍しい石を拾ったことがニュースになった。専門家の「同じように河原を歩いていても、珍しい石を発見できる人とそうでない人とに分かれる」という言葉も紹介されていて印象に残った。妻を見ているとゆっくりと分け隔てなく一つ一つ遺物を拾い上げているように見える。僕は妻よりはずっと視力がよいし、知識も多いのでそれがかえって見切りの早さに繋がり見落としが生じていることがあるのかもしれない。石などの自然物と遺物、遺物のなかでも価値の高いものとそれほどでもないものを見分けることは、容易ではないのだ。
 僕らは二人で川を歩くようになる。足の速い僕と、隅々まで微細な変化を見逃さない妻とで、時にはリズムの違いにお互い苛立つこともあるが、まずまずバランスのとれたコンビなのかもしれない。妻はよくこんなことを言う「これがなければ何も始まらなかったのだから、あの土器には感謝しないとね」と。初めの一つは格別なのだ。
 さて、土器自体に話を移したい。久しぶりに見る「初めての土器」は思っていたよりもずいぶん色が淡く優しげに見える。発見時の汚れと水濡れで黒々とした迫力ある姿が目に焼き付いていたのでやや意外であった。当時は「弥生かな」、「もしかしたら縄文だったり」と、根拠のない推論で盛り上がった。家に帰って見つけた遺物を調べたり、専門家の意見を聴きに行くことは、川歩きが与えてくれる最も楽しいことの一つだ。調べた結果、この土器は我々が思っていたよりは新しく、古墳時代後期から飛鳥時代頃にかけての土師器(はじき)と呼ばれる土器の甕であることが分かった。考古学上は甕と呼ばれるこの手の土器は、実際は煮炊きに使われたもので、簡単に言えば鍋のような用途の道具である。この当時、須恵器という、より高温で強く焼き締められロクロも鋭い焼物が、世を風靡していたはずであるが、土師器には須恵器にはない直火にかけても割れにくいという性質があり、このことは土師器が生き延びた大きな理由になった。川で見つかるこうした煮炊きに用いられた甕類は外部が黒く煤けていたり、内側に炭化した米粒がくっついていたりとなかなか生々しい印象を与えるものも多い。同じ土器でも儀式に使われたと考えられる物のサラッとした外観とは好対照である。

その後見つけた初めての土器と似た土器。興味深いのは両者とも底に粘土が溜まっていたこと。この川にしばしば現れる薄い粘土層は洪水堆積物と言われるが……

 川歩きも年数が経ってくると、土師器は数が多い遺物であることが分かってくる。目が肥え、自分自身が本当に探し出したい夢のような遺物が常に脳裏から離れなくなる。こうなるとありふれた土師器に対する感動は薄れていく。ただ自分がどれ程土師器について知っているかと問われればかなり覚束ないし、道すがら土師器を手に、「これは土師器といって」と説明しても、多くの人が困惑の表情を浮かべることも想像がつく。これが縄文土器や弥生土器であれば相手が何かしら腑に落ちたような安堵の表情を浮かべることも大いにあることだと思うのだが。このような事態は土師器にとって不幸なことであると僕は思う。焼物は時代を映す鏡であるということが古来言われている。土師器という鏡は一体何を映し出しているのだろうか。

土師器 坩(かん)
坩は数が多く比較的見つけやすい遺物だが、この坩はシャープさという点で際立っている。古墳時代前期の特徴的な造形といってよいと思う

 これは古墳時代の前期に作られた坩という名称で呼ばれる祭祀用とされる土師器の小壺である。土師器には斉一性という概念があり、広い列島でも同時代であれば、同一型の土器が出土することが知られており、この小壷もそうしたものの一つである。半球形の胴部から迷いなく伸びたラッパ型に開く口頸部。初期の土師器には球、半球、円錐台といった単純な図形を組み合わせたようなシンメトリカルな器形を持つものが多い。このことは直ちに、前方後円墳という幾何学的な名称と形態を持つ古墳時代を象徴する墳墓を連想させる。前方後円墳を上空から撮影すると、その姿が坩に似ていると思うのは僕だけなのだろうか。中国の史書に言われる、弥生時代後期の倭国大乱の後、このようなシンプルな構成の幾何学的なシンボルがヤマト王権を中心に国家を統一する過程で全国的に広まり、祭祀に用いられたことは非常に興味深い。
 弥生の壷の線は美しい。その姿からは、大切な種籾をしっかりと守ってくれる安心感と内に向かって膨らんでいくような充足感が感じられる。それはまた土地に結びつき多様性に富むローカリティの土器だ。それに対して土師器の壺からは、そのシンプルで力強い構造で内に満ちたエネルギーを外部へと解放しようとするような、弥生とは別方向の力動(天を志すような)を僕は感じる。弥生土器の母性と土師器の父性を対置することも可能かと思うし、あるいは、吸い込むことと吐き出すこと、土器が時代をまたぎ呼吸しているかのようにも見える。

弥生土器 弥生時代後期

土師器 二重口縁壷 古墳時代 
二重口縁という古墳時代に特徴的な口作りを持つ壺

 最近のDNAをベースにした研究では古墳時代に大陸から大量の移民の流入があったことが裏付けられている。初期の土師器や須恵器の容貌は、僕たちが普段、和様と呼び慣れ親しんでいる繊細な線や周囲に溶け込んでしまうような形とは異なったものだ。それは幾何学的な明晰さを持ち、原理というものを大切にした焼物であるように見える。僕はよく川で採集したこうした初期の土師器やそれに近しい弥生末期の土器を飾り棚に据えて眺める。すると、土器たちは古代のものというよりは、どこかの失われてしまった先進文明の落とし物であるかのように見えてくることがある。その文明を生きた人の血が自分にも少しばかりは流れているのか、僕は淋しいような懐かしいような気持ちになる。土器という柔らかな肌を持った知的で凛々しい土師器。遠い昔、古墳を造営し土師器を供献し、自分たちが作り出した偉大な構造物に見惚れながら佇む古墳時代の人々には、その夕暮れ、大陸からの乾いた涼しい風が吹いていたのではないかと想像する。

シンプルな土師器の壺は、現代の生活空間にも合いやすいし、花映りもよい。



*河川で採集された遺物、特に希少性、重要性の高いと思われるものに関しては、当該研究機関、および専門研究者の下へ届け出、研究資料として活用いただいています。

 
 

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