川で猿投を拾う|橘 岳


4|大きな提瓶



 4世紀の終わり頃朝鮮半島からもたらされた須恵器という焼き物は、多くの点で非常に革新的なものだった。斜面を掘り抜いた穴窯は、従来の土器を焼く野焼きとは比べものにならないほどの高温を可能にし、より堅固な焼き物を生み出した。燃料の薪が灰になり高温で生地と反応し釉薬と呼ばれるガラスを作り出すこと、空気の流入量を変えること(酸化焼成、還元焼成)、あるいは窯を密閉してしまうことで、土の色や釉薬の色が劇的に変わってしまうこと、そしてロクロ技術の進歩。須恵器はその後の発展の母胎となるいくつもの種子を含んだ技術体系であった。
 写真の須恵器は高さが40cm近くもあり、土器、須恵器を問わず自分が見つけたものの中では一番大きなものである。砂が詰まっていて揚げるのに苦労したことや、同行した友人の驚きの声、僕にとってはとても印象深い遺物である。今はある研究機関にあり、この須恵器を手元において眺めることはできない。このような耳付きの扁壺は提瓶(ていへい)と呼ばれ、水筒として使われていたらしいが、古墳の副葬品として発掘されることもある。僕は「大きな提瓶」とこの瓶を呼んでいるが、本当は違う名で呼んだほうがよいのではないかと思い始めている。それは、胴部が提瓶と呼ぶには随分厚みというか丸味を持っているし、耳の形も提瓶としての類例がなく、水筒にして吊るすにしてはとても重さに耐えられるものとも思えないからである。もっとも、提瓶の中には耳自体が退化してしまったものもあるのだが。
 須恵器にはフラスコ形瓶と呼ばれる器種がある。丸々とした胴部から細い頸が伸びる非常に優美で洗練された形の瓶で、中には美しい自然釉が流れたものもある。下の写真は僕たちが採集したフラスコ型瓶の残欠である。残念ながら頸は飛んでしまっているが、作行は丁寧である。


フラスコ形瓶は提瓶から変化したものとされ、この「大きな提瓶」は、提瓶からフラスコ形瓶へと変化してゆく過渡期のものなのではないかと、僕は想像している。やや頸は太いのだが、口作りや頸にぐるっと回った線刻は提瓶よりもフラスコ形瓶と共通のものである。
 フラスコ形瓶は猿投窯や湖西窯という東海地方の窯場の特産物であり、東国に強い影響力をもった瓶である。須恵器の本山ともいえる大阪の陶邑窯をさしおいて、地方の須恵器窯が、美しくもオリジナリティのあるスタンダード製品を打ち上げたことは、須恵器の中央集権的な性格や後に猿投窯が陶邑窯から窯業の覇権を奪うことを重ね合わせると、モニュメンタルな出来事であったのではないかと僕は思う。
 東海地方には「陶邑なんかに負けない美しい須恵器を作ってやるんだ」という気概にあふれた陶工がいたのだろうか。おそらくいただろう。しかし、気概は大切かもしれないが、その気概を支えたものが何かと言えば、東海地方の土であったと僕は思う。
 「大きな提瓶」には深い緑色をした釉が幾筋も流れている。これは自然釉と呼ばれる、燃料の薪から生じる灰が高温で生地と反応して生まれるガラスである。須恵器は1100℃程度で焼かれたと言われることがあるが、その程度の温度でこのような自然釉の景色を生み出すことはできない。「大きな提瓶」は1250℃を超す高温で焼かれているはずである。それでいてこの瓶は熱に負けたような仕草を一切見せていない。ひしゃげもしないしエッジはシャープなままだ。
 猿投窯の陶工たちは自分たちの使う土が熱に強いこと、そして灰釉を綺麗に輝かせることに気付いていたはずだ。陶邑の須恵器にも自然釉を被ったものが見受けられるが、その色は濁りがちで暗い。鉄分の多い耐火度のやや低い土を用いていたからだろう。陶邑窯の衰退と猿投窯の興隆の裏には様々な要因を求めることができると思うが、土の質という点で勝敗は決していたのではないか。東海地方には猿投窯の血を分けた、瀬戸、美濃、常滑といった窯場が現在に至るまで存続している。これは質量ともに土に優位性があった何よりの証拠ではないだろうか。
 カオリナイトという白色で耐火度の高い非常に優秀な粘土鉱物が東海地方の地下には眠っている。これは風化した花崗岩が長い年月をかけて東海湖に堆積し粘土化したものである。堆積した時間の長さはカオリナイトの粒子を細かくし強い可塑性を粘土に与えた。東海湖はおよそ700万年前から形成されたとされ、形を変えながら、今の濃尾平野や美濃山地と三重県の一部までを湖底に収める広大な淡水湖であった。木節(キブシ)、蛙目(ガイロメ)、百草(モグサ)、五斗蒔(ゴトマキ)。知らぬ人が聞いたら何のことかと思うだろうが、これらはみなこの地で採掘されるそれぞれ個性のある優良な粘土の名前である。
 僕が見つけたこの「大きな提瓶」は7世紀、飛鳥時代に猿投窯で作られたものと考えられる。一地方窯に過ぎなかった猿投窯が良質な土の潜在力を解放し独自の道を歩き出し始めるのを仮にこの時期としよう。その後、自然釉任せの窯焚きから、より白色の陶土を用い、灰を器に塗り、釉をコントロールし始める大きな一歩を踏み出すのが奈良時代の終わりから平安時代の初期にかけてのこと。この200年近い時間のうちに何代の陶工たちが過ぎ去ったのだろうか。現代を生きる僕の目からすると陶技の進捗は緩慢なものにも見える。いつもソワソワしている現代人とは異なり、縄文土器は言うに及ばず、古代の焼き物はとても長い時間をかけ変化していった。須恵器はいつも堂々としているし、後を継いだ灰釉を纏った平安陶器は夢のようにはかなく美しい。

奈良時代の須恵器。仏具を思わせる洗練された線が印象的だ



*河川で採集された遺物、特に希少性、重要性の高いと思われるものに関しては、当該研究機関、および専門研究者の下へ届け出、研究資料として活用いただいています。

 
 

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