川で猿投を拾う|橘 岳
5|源流の森へ キノコの季節
10月のある日の源流部のアカマツ林にて。松茸
秋はキノコの季節である。僕の足は何時もの遺物探しとは逆方向、川を源流へと遡る方向へと向かうことになる。秋はまた、台風の季節であり、多くの雨が降る季節でもある。雨はキノコの菌糸を育てる恵みであると同時に、新たな土器を洗い出す原動力でもある。僕の心は山と川の二つに割れてしまいそうだが、この時季、僕の重心は山側へとかなり強く傾くことになる。
山と川を移り気に行き来することは、双方の神様の機嫌を損なうことになりはしないか、あるいは同じ流域のことだから神様も寛容でいてくれるだろうか、というような事を半ば真剣に考えたりもする。日本は八百万の神の国だから、個々の山川に神々がいると考えることは穏当なことである。しかしただ考えることと、信じることとの間には大きな隔たりがある。僕はそうした自然に宿る神々を信じていると信仰を告白することはできないのだけれど、時に何かに呼び止められるようなこと、川でも山でもあまりに微細なことが結果を大きく分けること、を幾度か経験してゆくなかで、思わず、神様という言葉が脳裏をよぎってゆくことはあるのである。
これはほんの数日前に実際にあったことである。10月半ばのある夜明け、僕は今年通い詰めているある山の尾根にいた。ツガとミズナラを主体とした急峻な尾根で、この山では松茸はアカマツではなくツガから発生する。一通り今年実績のあった場所を見回るが松茸は一本も見当たらない。早起きとキツイ山登りの報われなさに、僕は確実に不貞腐れながら尾根を下り始めていた。暫くすると尾根が細まり一層切り立った崖の下に四連のキノコの傘が目にはいる。傘の色は松茸と似ている。僕は尾根上から目を凝らしそのキノコを観察した。松茸の可能性は極めて低いと結論づけたのだがどうしても気になり崖を下りその四連のキノコを間近にみる。案の定それらは松茸とは全く縁もゆかりも無いキノコだった。「やっぱりね」と心のなかで自虐的な気持ちで呟いたと思う。そして崖を登り返そうと目線を上げる。その刹那、崖の中程に頭を少しだけ出した松茸が目に飛び込んできたのである。急いで崖をよじ登る。世界が唐突に色彩と活気を取り戻す瞬間だ。松茸は根が非常に深いキノコなので丁寧に表土を除け、慎重に抜き上げる。快感である。一つ見つけたら辺りをくまなく探すのはキノコ探しの鉄則である。周囲に注意深く目を配ると一本目のすぐ上に傘を開いたもう一つの松茸が見つかる。
この時見つけた松茸
あの四連のダミー松茸は僕に教えてくれた。「ここでは松茸は尾根上から下を眺めるだけでは見つからない、崖を降り下から上を見上げ一本一本丁寧にツガの周りを探せ」と。僕は新しい意志とともに尾根を登り返し、怪しげな崖を一つ一つ下り一本一本ツガの根回りを探った。すると既に見たつもりであった尾根から数本の松茸を見つけることができた。そのうち2本は妻の顔を覆ってしまうような大きな開きの松茸で、自分の目の節穴加減には呆れるばかりだが、モノ探しにはよくあることだ。
顔を覆ってしまうほどの大きな松茸
この程度のことはキノコを採る多くの人が経験しているだろうし、これを山の神様云々言うのはいかにも大袈裟である、と思われるかもしれないし、僕とてもそう思わないわけでもない。ただの偶然として片付けておくのが妥当なのかもしれない。けれども川での土器探しをとってみても、非常に些細な偶然がよい成果をもたらすようなことを、僕は何度も経験している。偶然とは一体何であろうか。ニーチェは神の死んだ世界を生き抜くために運命愛を説いたが、その核心には偶然を必然と化すという激烈な思想があり、大学生の僕を痺れさせたものだ。一神教に鍛えられそれに反逆したニーチェの思想は、今の僕の肌感覚とは随分離れたものとなってしまったが、偶然をどう受け入れ、どう生かすかは幸せに関する極めて実践的な問題である。山を下りて妻への安否確認のLINEの第一声が「今日は松茸ご飯と土瓶蒸しだから、出汁の準備をしといてね」と弾んだ心で言えるのと、「今日も何もなかったー。帰るわ」というのでは幸せにおいてあまりに大きな違いがある。だから僕は山や川(の神様)には好かれていたいなと思うのである。そして少しでもよい偶然を与えてくださいと貪欲にも願うとともに、偶然を受け入れられる余地を自分のなかに常に保っておきたいと思っているのである。
松茸タップリの松茸ご飯
松茸を採ったこの日僕の心は軽かったが、下山の際一つチョンボを犯してしまった。キノコの生育地をシロとキノコ採りの人たちは呼ぶ。カタカナで通例表記されるが、おそらく漢字にすると「代」が相応しいはずで、依代(ヨリシロ)などと同様の意味で特別なものが宿る場所という意味だと思う。この山の松茸のシロは尾根を二つ越えた先の尾根にある。尾根越えはいつも難所である。尾根と尾根の間は急峻な谷状の地形や沢の源頭になり剥き出しの岩が聳えていたり、浮くような砂利がまるで蟻地獄のように登るものを谷底へと引き込んで掴まる樹木すらない。この日もそんな谷を僕は四つ足になって、ズルズル滑りながらも何とかよじ登っていたのだが、ふとした弾みに、リュックのサイドポケットに差し込んでいたペットボトルを落としてしまったのだ。ペットボトルは数メートル下の谷底に留まっていた。
ズルズル滑り降りながら元来た谷に戻れば回収可能であったが、僕はもうそこには戻りたくなかった。山中に住んでいて普段からゴミを山に捨ててゆくマナーの悪いゴルファーなどに腹を立てていたが自分も同じことをしてしまった。この松茸を始めたくさんの素晴らしいキノコを産する美しい尾根にゴミを残してしまったことは残念である。が、僕が帰宅後感じた後味の悪さはどうも山に対する申し訳ないという気持ちのみから来るものではなかった。それはゴミの放置という形でライバルに自分の存在を知らせてしまったことに起因しているようであった。純粋に登山を楽しめる心根の人を僕は羨ましく思う。
源流部の川
*河川で採集された遺物、特に希少性、重要性の高いと思われるものに関しては、当該研究機関、および専門研究者の下へ届け出、研究資料として活用いただいています。
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