忘れものあります|米澤 敬

10|鄙には稀な


 

『男衾三郎絵詞』という鎌倉時代の絵巻がある。吉見二郎と男衾三郎という関東武士兄弟の物語だ。兄の二郎は、都風の生活をおくる「色好み」の男。言ってしまえば「鄙の都ぶり」である。弟はあえて醜女を娶り、不細工な子どもたちに囲まれて暮らす。こちらは潔い田舎者だ。男衾は、現在も埼玉県の地名として残っているが、ここでこの名を使っているのが、ちょっと引っかかる。何しろ「オトコのブスマ」である。あまりあてにはならないものの、ブスの語源はトリカブトの毒を意味する「附子(ぶす)」であるともいう。音感にもよるのだろう、「ヤリブスマ」も「ノブスマ」もどこか不穏である。ノブスマを「野襖」と綴れば、夜の路上で行く手を阻む、水木しげるが「塗り壁」の名で好んで描いたあやかしである。

つまるところ絵巻『男衾』には、辺境に対する都市住民の偏見を感じる。古代より地方人を蝦夷や熊襲、あるいは多少なりとも力を持つ相手なら、鬼や土蜘蛛などとも呼んできた伝統があるから、オブスマ・イメージも当時の都人の常識的な見方に類するものだったのかもしれない。

『男衾三郎絵詞』より。

上野発の急行列車で1時間半ほどの街に生まれ育った身としては、これは他人事ではない。ただ中野や麻布に親戚がいたこともあって、子どもの頃から年に一度くらいは「上京」していた。幸いにして、東京に引け目を感じたことも過剰な憧憬を抱いたこともない。周囲の友人たちが皆、「大きくなったら東京に住みたい」などと言うのを斜めに見て、「僕は自然の中で虫や蛙を採って暮らすのさ」などと嘯いていた。いまその友人たちはことごとく故郷の地で安穏と暮らしているのに、こちらはいつの間にか東京生活が40年を越えてしまった。東京に居を定めてからは、関西、特に京都に対してささやかな劣等感を抱くようになっている。だいたい関西出身者は、どこへ行っても関西弁を使い続ける。そんな根拠の定かでないプライドに太刀打ちできず、うっかりすると当方も片言の関西弁を使っていたりするから、我ながら気色が悪い。

ところが、ある京都室町出身の先輩と話しているとき、京都人は奈良に対して後ろめたさを感じていると告白された。南都の歴史そのものは百年にも満たないけれど、この国の骨組みは大和盆地でつくられたと言えなくもない。平安遷都以降も、文化の風は奈良の方から吹き続けていたようであるし、都市としての京都の大きな転機となった応仁の乱を眺望してみると、東大寺や興福寺あたりの思惑が乱の行方を左右していたようにも見えてくる。

ならば、その奈良はどうだったのか。時代を遡ってみても、河内や九州、あるいは伊勢を、奈良の背骨や原郷とすることはできそうにない。もちろん出雲や吉備はもともと別の国であったから、論外である。

そんなことをつらつらと考えているうちに、若狭とその周辺が気になってきた。継体天皇は、近江で生まれ、若狭と近江の間を行き来していたという。東大寺の修二会は、お水取りとも呼ばれるように、いまも3月12日に香水が汲まれているが、その水は「若狭井」のものであり、これに先立って若狭の小浜では「お水送り」の行事が行われている。また平城王権の地ならしとして編纂された「大宝律令」の中心編者である撰善言司(せんぜんげんし)に、伊預部馬養(いよべのうまかい)がいた。彼は丹波国司(くにのみこともち)も務め、丹後の浦島説話を採録して、『古事記』や『万葉集』に忍び込ませたことでも知られる。一説に浦島譚は、中国の説話をもとにした馬養の創作ともされるが、いずれにしても、他のどこでもなく丹後の地にこの物語が託されたことには何かの思い入れが感じられる。丹後にはまた羽衣伝説もあり、畿内との境界には大江山がある。大江山といえば、もちろん酒呑童子だけれど、童子の正体を丹後に漂着したシュタイン・ドッチという赤ら顔のドイツ人だとする妄説はさておき、大江山の伝承は平城京以前にまで遡ることができる。崇神天皇の弟、日子坐王(ひこいますのみこ)による土蜘蛛退治も、用明天皇の王子、金丸親王による鬼退治も、その舞台は大江山だった。そんな大江山の彼方には、竜宮や蓬莱のような別世界が想定されていたようでもある。そもそも彼の地は、対岸の中国大陸を通じて世界に向かって開かれていた。こうなってくると、どちらが田舎でどちらが都が判然としなくなる。

「鄙」は、卑や夷とも書くように、いやしいという意味があった。同音の「雛」はもともとは「ひいな」であって別の言葉ではあるけれど、どちらも小さくてとるにたらないものを表している。なにかを物語ろうとして、あえて「鄙には稀な」と言うとき、そこには都以上の何かが期待されていたのかもしれない。

『浦島絵巻』より。


米澤 敬(よねざわたかし)

群馬県前橋市出身。小学校ではは新聞委員をつとめ、中学校では卓球部、高校では生物部に所属した。以後、地質調査員、土木作業員、デザイナーを経て、現職は編集者。


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