忘れものあります|米澤 敬
9|変態学事始
変態が気になる。変態といっても、いわゆる変質者でも、その行為や嗜好のことでもない。そういう変態ならば、当人同士の了解があり、第三者に迷惑をかけない限りは自由である。もっとも、その手の紳士淑女の方々は、往々にして了解を超えてことをなしたり、第三者に迷惑を及ぼすことが嬉しかったりするので、厄介といえば厄介だ。そういう意味での変態という言葉のもとになったのは、変態心理学であるとされている。大雑把に言い換えるなら、異常心理学のことだ。かつては変態民俗学という学問もあった。異類婚伝説や妖怪、秘儀や葬礼、あるいは刑罰や入墨などが対象とされる。ただ、それらに対する関心をひとくくりに変態と断じてしまうと、柳田國男も立派な変態であるし、折口信夫だってかなりあやしい。というか、そもそも民俗学という学問そのものが、変態と抜き差しならぬ関係があるということにもなりかねない。もし近代の合理思想が排除したもの、あるいはそこから抜け落ちたものを変態と呼ぶなら、あえて変態の肩を持ちたくもなる。ちなみに、現在ふつうに使われている「エッチ」という言い方も、もともとは「変態」のローマ字表記のイニシャルだという説がある。ただし他にももっともらしい説がいろいろあり、あまり当てにはならない。
ここで気にしている変態は、その種のものではない。そういうものも全く気にならないわけではないが、あえて言挙げしたいのは、オタマジャクシが蛙になり、イモムシが蛹になり蝶になる、という方の変態である。つまり生物の発生プロセスにおける変態だ。この種の変態に真正面から光を当てた研究は、あまりないと思う。すぐに思い出せるのは、18世紀初頭の女性博物学者マリア・ジビーラ・メーリアンによる『スリナム産昆虫の変態』くらいだ。
メーリアン『スリナム産昆虫の変態』より。
ダーウィンに大きな影響を受けたドイツの進化学者エルンスト・ヘッケルのよく知られた言葉に「個体発生は系統発生を繰り返す」がある。要するに、ヒトが受精卵という単細胞状態からスタートし、エラを持つ魚のような形態を経て赤児として誕生するのは、ヒト(個体)の発生がヒト(系統)の進化の事象をトレースしているからだとみなす考え方である。この発想は、20世紀後半までに完膚なきまでに批判し尽くされたように見えた。ところがその後、分子生物学の発展や発生システムの詳細な解析を通じて進化発生学という新ジャンルが確立すると、ヘッケルの「妄説」がにわかに注目されるようになった。「個体発生は系統発生を繰り返す」ことが証明されたわけではないが、その発想自体が捨てがたいと思われるようになったのである。
話は少々それるが、進化という言葉も、往々にして誤解されてきた。広告などでも「企業の進化」や「進化する技術」などという表現をよく目にする。しかし進化は進歩でも改良でもない。人間の基準からは退歩と見える状態も、進化の一つのありようなのだ。寄生虫だって環境に適応しているのである。
もう一つ、これはヘッケルの影響なのかもしれないが、進化と変態が混同されることも多い。進化はあくまでも集団としての環境適応である。ただし、ある環境に適応した集団が生まれると、その環境はもとの環境そのままではなくなるので、ことはそれほど単純ではない。
映画「シン・ゴジラ」で内閣官房副長官が変態するゴジラを前に、「まるで進化だ」と言うのはギリギリ間違いではないが、「ゴジラvsビオランテ」でビオランテの変異を見た白神博士が「ビオランテが進化している」と表現するのは間違っている。ただし知人の生物学者は、そこで正しく「ビオランテが変態している」と発言すると、あたかもビオランテとゴジラが芦ノ湖畔で妙な関係になってしまったように聞こえるので、特別措置として許容すると言っていた。そういう発想をするこの知人もまた、十分に変態であるような気がする。
進化も変態も面倒な概念ではあるが、変態は進化に比べるとあまりに過小評価されている。
動物図鑑を見るとき、我々はそこに蛙の成体や蝉の成虫だけが掲載されていることに疑問を感じない。しかし蝉の「人生」の大部分は土の中で幼虫状態で過ごしているのである。彼らの生の本分はそこにこそあるのかもしれない。羽化した後は、鳴いて、交尾して、産卵するだけである。成虫こそが、かりそめの姿にも思えてくる。また、イセエビとワタリガニとフジツボの「大人」の姿は全く異なっているけれど、ノープリウス幼生のときには、素人には区別できないほどよく似ている。ヒトに近いものでは、魚だってその幼生と「大人」で全く形が違うやつがいる。いやいや、ヒトにしてからが、乳歯が永久歯に生え変わり、二次性徴で外見は大きく変化する。
ヒラメの稚魚。成長とともに両目が片側に移動する。
変態を気にかけることにより、「大人」ばかりを基準にしているこれまでの生物観とは異った何かが見えてくるのではないかと思っている。大人の姿がスタンダードで完成品であるというのは、いったい誰が決めたのか。もちろん大人の人間である。大人が子どもより優れているというのも、大人の勝手な偏見だ。肝心な場面で「子ども騙し」に引っかかるのは、たいてい大人たちの方である。もっとも変態を介して、子どもや幼生に肩入れしたくなるのは、ほかならぬ自分が、いつになっても「大人げない」と言われ続けていることにも一因があるのかもしれない。
米澤 敬(よねざわたかし)
群馬県前橋市出身。小学校ではは新聞委員、中学校では放送委員をつとめ、高校では生物部に所属した。以後、地質調査員、土木作業員、デザイナーを経て、現職は編集者。
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