忘れものあります|米澤 敬

12|オールド・シネマ・パラダイス


 

いっときは、年間に100本ほどの映画を映画館で観ていた。とはいえ、その大半はアメリカ映画だったので、本筋の映画愛好者から莫迦にされても仕方ない。

映画館通いをはじめた頃、先輩の女性たちからしきりに勧められた作品がある。「E.T.」である。「観るべきよ。絶対に感動するから」と、しつこい。そんな風に言われると、絶対に観るまいと思ってしまう臍曲がりの性分である。それにスピルバーグなんかで感動したくない。いまもって「E.T.」は観ていない。

その少し前、先輩の男どもから勧められたのが「狂い咲きサンダーロード」だった。「騙されたと思って、とにかく観ろ」と、こちらもしつこい。こっちは観た。観る、観ないの基準は自分でもよくわからない。小さなスクリーンでの上映だった。はじまって5分で「騙された」と思った。手持ちカメラが不安定で、船酔い状態になる。台詞も聞き取りにくい。席を立とうと思っているうちに、いつの間にか引き込まれ、エンドロールまで堪能してしまった。

編集者として早速、石井聰亙監督にインタヴューしたほど後を引いた。その後、石井作品は「爆裂都市」「逆噴射家族」と続けて観たが、次第に洗練されていった作風が物足りなく、以降の作品は未見である。

その石井監督の「親分」に当たるのが長谷川和彦だ。こちらは仕事で接点を持ったことをきっかけに、全作品を観た。といっても、彼は映画を2作しか撮っていない。「青春の殺人者」と「太陽を盗んだ男」である。後者は、沢田研二演じる主人公が、盗んだ核物質でこしらえた原爆によって政府を脅迫し、当時、麻薬で逮捕歴があったため入国禁止だったローリング・ストーンズの日本公演を実現させるという無茶苦茶な話である。放射能で沢田研二の髪の毛が抜けるシーンは、かなり衝撃的だった。

その後、長谷川が監督を辞めたという話は聞かないが、いつまでたっても新作のメガホンをとる様子がない。

さらにその長谷川の師匠にあたるのが今村昌平である。

大学時代には、大学祭で映画が上映されるたびに、そのラインアップには必ず今村作品が含まれていた。自治会が新左翼系だったので、エイゼンシュテインの「戦艦ポチョムキン」や「ストライキ」が上映されることが多かったが、同時上映されるのは「道」や「自転車泥棒」などの古いイタリア映画、邦画では「にっぽん昆虫記」をはじめとする今村作品だった。大学祭の実行委員に今村ファンがいたのかもしれないが、とにかく映画の貸出料金が安かったという話も聞いた。おかげで今村作品とは比較的馴染みが深くなった。

ある年刊雑誌の編集スタッフに加わった際、そのメディアの監修者として今村監督が招聘された。映画監督がペーパーメディアの監修者になった経緯はやや煩雑なので、ここでは省略させていただく。

現場での厳しさから「鬼平」と呼ばれていたことは知っていた。最初の編集会議では、スタッフ一同緊張しつつ今村監督を迎えたが、案に相違して、監督は若造たちの右往左往を静かに見守ってくれた。調子に乗って、映画マニアを自称するカメラマンが、監督に言ってしまった。「今村さんの『どですかでん』、最高でした」。会議参加者が凍りついた。しばらくの沈黙の後、監督は憮然としながらも、「あれはクロサワだよ」と静かに返した。幸い、今村昌平が映画の世界に入る一つのきっかけが黒沢明作品だったから、ことなきを得たというところだろう。それにしても「どですかでん」はないと思う。

今村監督には、何度かインタヴューにも同行していただいた。監督自身が選ぶ取材対象者は、無名の人びとが多い。東北の小さな飲み屋の女将、彰義隊の墓守を続ける老人、歌舞伎町の弱小暴力団の組員などである。組員の取材をした後は、何年間か当人から年賀状が届いたのには、ちょっと閉口した。「この頃は歌舞伎町も中国人が増えたので、やりにくくなってきました」などと毛筆でしたためてくる。何がやりにくいのだろう。あまり考えたくない。

話を戻す。今村昌平のドキュメンタリー映画を観た人なら知っているはずだが、監督のインタヴューは不器用である。周辺に手だれのインタヴュアーが多かったこともあり、若造の目から見ても、監督のインタヴューは下手くそだと思った。しかしインタヴュー上手とされていた人たちは、たいてい自分の予習の成果を見せびらかしたり、相手の思いを先回りして言葉にしたり、メタファーやレトリックでそれらしくまとめてみたりする。今村インタヴューは、そうしたやり方の対極にあった。じれることなく、ひたすらに相手が自分の言葉を見つけ出すのを待つのである。そうして手に入れた言葉は、一見、凡庸でありきたりのようでいて、その場でしか出会えないものであったりする。

その後、今村昌平の本をつくる機会をいただいた。3日間にわたり延べ10時間ほど監督にインタヴューした。予想していたことではあったが、質問に対しての答えがなかなか返ってこない。長考が多いのである。小賢しい合いの手を入れたくなるのを我慢しつつ、釣りをするように答えを待っていた。結局、10時間ほどのテープに収録された監督の肉声は2時間くらいだった。後で監督夫人を通じて、黙って答えを待っていたことを感謝された。感謝したいのはこちらの方である。あれは、ほかならぬ監督その人に教えてもらったやり方なのだから。

雑誌の監修者をお願いしていた時期、「楢山節考」がカンヌでパルムドールを受賞していながら、今村昌平はなかなか思うように映画が撮れないでいた。予算が集まらないのである。邦画は斜陽産業であるとも言われていた。監督自身は、「映画が衰退したのではない、映画興行が衰退したのだ」と、時流に抗して映画の可能性に賭けていた。

「黒い雨」も映画会社がつかず、予算の手配が困難だった作品である。撮影前には、原作者の井伏鱒二氏の映画化の承諾が得られず、荻窪の井伏邸を何度も訪れ、話し込み、説得を重ねたそうである。その作品がそうであるように、監督自身も粘りの人なのだ。

その「黒い雨」が完成した頃、たまたま地下鉄で監督と出くわした。あまり元気がなかった。「モノクロで撮ったのは失敗だったかなあ」と聞かれた。そんなこと言われても困る。こっちは映画に関しても、人生に関しても半端者以下である。だいいちまだその映画を観ていない。まっとうな返事をすることなど、できるはずがない。それでも精魂傾けた自分の作品について、こんな素人に向かって「弱音」めいた言葉を吐くのは、そうそうできることではない。弱音の中に、とてつもないしぶとさを感じた。実際に観て、「黒い雨」はやはりモノクロであるべき映画だったと思った。

「黒い雨」は、カンヌでパルムドールを逃した。「正義の戦争よりも不正義の平和のほうがいい」という台詞を問題視した審査員がいたと聞く。ヨーロッパらしい道徳観だ。監督は次の「うなぎ」ではパルムドールをとったが、結局、長年温めていた念願の企画「新宿桜幻想」には、着手することができなかった。戦中の新宿花街を舞台にした今村「重喜劇」である。主演には山口智子が候補に上がっていた。どうやら、当時の街並みを再現したオープンセットをつくる予算の目処がつかなかったようである。

近年は、日本映画はけっこう元気がいいように見える。でも映画館まで出かける気にさせてくれる作品は、少なくなった。今村昌平が小津安二郎の、長谷川和彦が今村昌平のそれぞれ助監督を務めることによって得た何かが、継承されなくなっているのかもしれない。徒弟制度が必ずしもいいとは思わないが、映画監督になるハードルが低くなったことで、映画の存在感が薄くなっているとも感じる。

今村昌平にならって言うなら、「映画の元気がいいのではない、映画興行の元気がいいのだ」ということになるのだろう。


米澤 敬(よねざわたかし)

群馬県前橋市出身。小学校ではは新聞委員をつとめ、中学校では卓球部、高校では生物部に所属した。以後、地質調査員、土木作業員、デザイナーを経て、現職は編集者。