忘れものあります|米澤 敬

14|眠れる森の書物


 

ヴィクトル・ユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』第5編第2章のタイトルは、「これがあれを滅ぼすだろう」である。「これ」は書物、「あれ」は建築物を指している。西洋では教会をはじめとする建築物は、聖書や伝説、そしてときには哲学の表象だった。ユゴー自身の言葉には「建築術は人間の思想とともに発展したのである。建築は無数の頭や無数の腕をもった巨大な姿となり、永遠不滅の、目に見え手で触れることのできる形態のもとに、浮動するあらゆる象徴を定着させたのである」とある。なるほど、そのような役割を書物に奪われた建築物は、やがて機能性と合理性にその存在価値を見出し、鉄とコンクリートとガラスによるモダニズムへと向かった。
建築物がメディアだったのは、一般に石造りの西洋建築についての話だとされている。しかし日本でも日光東照宮に代表されるように、建築物は種々多様な物語によって彩られてきた。その東照宮のあり方を真っ向から否定したブルーノ・タウトは、その対極にある桂離宮を愛したことで知られる。その桂離宮もまた、タウト自身によってドイツ・ロマン派の文脈から、そこにこめられた「思想」と「物語」が読み解かれている。日本でも建築物は一冊の本だったと言えなくもない。
「これがあれを滅ぼすだろう」という台詞、近頃もよく耳にする。近年の「これ」は電子メディア、「あれ」は紙の書物である。デジタルとアナログの対比で語られることもある。
本づくりにかかわる者や愛書家たちは、それでも紙の書物の優位性を熱心に説く。インターネットが普及しはじめた頃は、情報の精度が問題にされた。つまりネット情報はあてにならないし、俗悪なものが混在しているという主張である。しかし、紙の書物だって、そのあたりあまり胸を張ることはできない。あてにならないこと、時に俗悪であることにおいては、どちらもいい勝負である。
かく言う当方もいっときは、電子メディアはデバイスに依存しすぎているという理屈で、紙の書物の優位性を強調したことがある。磁気嵐や停電によって電子メディアは使いものにならなくなる、と難癖もつけた。あらためて考えてみると、これも公平性にかける言い草だった。極限状況を想定するなら、紙のメディアは火災や水害の前ではひとたまりもない。あのアレキサンドリア図書館の収蔵物も、火災によって灰塵に帰したではないか。
それに、本づくりにかかわる我が身を振り返ってみるなら、デジタル・メディアの普及によって、編集という営為は以前より格段に快適になったばかりか、楽しく豊かにさえなった。現代では、完成した書物が紙とインクでできていても、その制作過程の9割以上はデジタル・プロセスなのだ。デジタルとアナログの対比など、もうほとんど意味はない。
よく「情報は生きている」と言われる。確かにそのように見えなくもない。ただし情報が生きているように見えるとき、そこには何らかの生命活動が介在している。生物の遺伝や生長、社会システムや歴史などはもちろん、宇宙や物質について考えてみるとき、そこで情報が生きているように見えるのは、意識や思惟という人間の生命活動があってのことである。
それでもやはりネット上の情報は、生きていると喩えたくもなる。ネット情報は日々、加筆改変され、承認され、拡散され、そして炎上する。その良し悪しはともかく、いったんネットワーク上に公開された情報は、その提供者の想定を超えて変転し続ける。別に新しいことではない。古くから画讃というものもあった。

対して書物やCD、DVDなどのパッケージ・メディアは、ひとたび完成すると、そのありようを変更するのは、労力的にも経済的にもさほどたやすくはない。もしメディアを対比するなら、オープン・メディアとクローズド・メディアによって分別する方が、その性格がはっきりするかもしれない。
もしオープン・メディアの情報を生きていると喩えるなら、クローズド・メディアの情報は死んでいることになる。つまり書物は情報の屍(しかばね)なのである。もう少し穏当に言うと、書物は仮死体である。ネット情報が代謝され続けるのに対して、書物では執筆者ないし制作者は、どこかで情報の息の根を止めなくてはならない。どこで止めるかの思い切りは、どのように屍を晒すかという決断とともにある。だから書物、あるいはパッケージ・メディアの編集とは、いかに仮死体をつくるのかという作業でもある。

パリのカタコンベ(地下納骨所)

そう考えると、ぎっしりと書物が詰まった書架が並ぶ書斎や図書館を前に、ついついカタコンベを連想してしまうのも、故なしというわけではなさそうである。

そして書物という屍は、九相図のようにそのまま朽ちていくこともあるし、王子様の口づけで、再生を遂げるというハッピーエンドを迎えることもあるのである。


米澤 敬(よねざわたかし)

群馬県前橋市出身。小学校ではは新聞委員をつとめ、中学校では卓球部、高校では生物部に所属した。以後、地質調査員、土木作業員、デザイナーを経て、現職は編集者。