忘れものあります|米澤 敬

15|はじめての食べもの


 

母乳で育てられた。だから人生はじめての食べものは、母乳ということになる。もちろん産湯に浸かった記憶があるという三島由紀夫ならざる身としては、母乳についての覚えはまったくない。
子どもの頃、はじめて食べる料理や食材は、それこそ数え切れないほどあったはずだが、何かをはじめて口にしたという記憶は、ほとんど残っていない。わずかに母親が試しにつくったドクダミの天麩羅がその例外。むしろ大人になってからはじめて口にしたものは、いくらでも列挙できる。しゃぶしゃぶもピザも、ホイコーロも牛丼も、もちろんへしこやフォアグラも、上京してから知った。ただしやっぱりそれらをいつどこではじめて口に入れたのかについては、思い出せない。ここでの例外は、茶豆と柚子胡椒。ただの枝豆だと思って口にした茶豆の豊かな香りは、鮮やかに思い出すことができる。柚子胡椒も、それに出会った料理屋の佇まいまで記憶に残っている。
大人になってからは、さもしいとは思いつつも、他人が食べているものが気になるようになった。あるとき、つけ麺(これも最近の食べものではある)屋のカウンターで、新入社員風の二人連れと隣り合わせになった。彼らはつけ麺初体験らしく、丼とつけ汁を前に「どうやって食べるのかな」などと交わしている。「そんなに悩むほどの食い物じゃないだろ」と、こちらは内心ちょっとした優越感に浸る。彼らのオーダーが塩つけ麺だったので、麺には柚子胡椒が添えられていた。しばらくして一方の若者が言った。「あ、この山葵、鼻にこないね」。「あのね、それは柚子胡椒というもので……」と、ふたたび心の中に優越感が広がる。我ながら、人間が小さい。考えてみれば、自分だって彼らと同じようなことは何度も繰り返してきたはずである。
話変わって、もう40年ほど前のこと、小学生向けの科学雑誌の編集をしていた。特集記事のため、子どもたちを引率して開業直前の千葉浦安のあのテーマパークを訪れた。見学の事前事後に、10人ほどの小学生にインタヴューするという段取りだった。子どもたちはしきりにアトラクションの舞台裏を見たがったのだが、パーク側は「ここは夢の国だから、そういうところを見せるわけにはいかない」の一点張り。ねずみ男というか、鼠小僧というか、例の人気キャラクターも姿を見せず、子どもたちの切なる「夢」はいきなり挫かれたかたちである。唯一、一行が入ることができた舞台裏が、社員(スタッフ)食堂だった。小さなコンビニも併設され、なんでも好きなものを注文していいとのこと。ハンバーグやオムライスもあったのに、大半の小学生がカップヌードルとポカリスエットを手に取った。遠慮しているようでもなく、ここぞというときの彼ら彼女らのスペシャリティらしい。こちらは日本の食文化の将来を憂い、いささか暗澹たる気分になった。そんな小学生たちも、いまはもう孫がいたっておかしくない年頃である。
ちょうど自分が彼らと同じくらいの年齢だったとき、扁桃腺(いまはただ扁桃と呼ぶらしい)を切った。当時はちょっと腫れやすいというだけで、簡単に扁桃腺を切除したものである。免疫器官なのにそんなに安易に切ってよかったのだろうかと思う。いまでも扁桃腺を切除することはあり、全身麻酔で手術を行っているそうだが、かつては局所麻酔だった。従兄弟が扁桃腺の手術中、あまりの痛さに「イシャのバカヤロー」と叫んだという話を聞かされたので、手術前にはかなりビビっていた。当日、病院の前に立つと、看板に「肛門科・耳鼻咽喉科」とあった。他人の尻を触った手が口の中に入ってくることを想い、さらに気分は重くなる。「痛かったら痛いと言ってね」と看護婦。しかし手術台(といっても椅子)に座ると、いきなり両腕をゴムバンドで肘掛に固定された。喉の奥に注射されるくらいでは、うろたえることはなかったものの、メスを持った手が口の中に侵入してくると、めちゃくちゃ苦しい。しかもかなり痛い。ご忠告どおり「痛い!」と言おうとすると、すかさず「危ないから口を動かすな」と医者に叱られた。「イシャのバカヤロー」と叫んだ従兄弟の根性に頭がさがる。
手術後の入院はなし。夕方まで病院のベッドで休み、家へ帰る。まる一日はなにも食べてはいけない。水も口を湿らせる程度だ。両親のおかげで、それまでひもじいという思いをしたことがなかったので、食べられないことがどれほど切ないことなのか、その入り口あたりを体験することになった。頭の中をいろいろな食べものが飛来する。一昼夜を経て、母親に「なんでも食べたいものをつくってやる」と告げられたとき、術後はじめての食べものとして迷わずリクエストしたのが、エースコックのインスタント・カレーラーメンだった。
ここぞというときにカップヌードルをチョイスした小学生を、嗤うことはできない。


米澤 敬(よねざわたかし)

群馬県前橋市出身。小学校ではは新聞委員をつとめ、中学校では卓球部、高校では生物部に所属した。以後、地質調査員、土木作業員、デザイナーを経て、現職は編集者。