忘れものあります|米澤 敬

16|蚯蚓と神鏡


 

チャールズ・ダーウィンの生涯最後の著作は『ミミズと土』である。ミミズなくしては、我々の知る「土」も「景観」もありえないことを実証する試みだった。ダーウィン自身の言葉によれば、「鋤は人類が発明したもののなかで、最も古く、最も価値あるものの一つである。しかし実をいえば、人類が出現するはるか以前から、土地はミミズによってきちんと耕され、現在でも耕されつづけている」ということになる。土はミミズの消化管を何度も通過することで、肥沃土になる。それだけでなく、石ころだらけの荒地も、ミミズが土をふんわり柔らかくしてくれるおかげで、石が土中に沈み込み、植物の繁茂に適した場所へと生まれ変わるのだ。ダーウィンによれば、ミミズの排出物の量は、1年に1エーカー(約40アール)あたり7.6〜18.1トンにのぼる。まさにミミズさまさまである。
なのにミミズはいつの世でも軽く見られてきた。日本国内だけで500種類もいるというのに、その多様性に魅せられたという話もあまり聞かない。昆虫少年や恐竜少年はたくさんいるが、貧毛少年(ミミズは環形動物門貧毛綱の総称、多毛綱はゴカイなど)は、まずいない。もちろん少女も。
ミミズはほとんどどこにでもいる。小さな庭石をひっくり返すだけで、かなりの確率でミミズに出会える。子どもの頃は、そんなミミズを躊躇なく摘んだり、鷲づかみにしたりしたものである。あらかじめ毒があるとか、噛みつかれるとか知らされていないかぎり、ヘビだろうがカエルだろうが、イモムシだろうがナメクジだろうが、平気で掴んだものだ。しかもその扱いはかなりぞんざいだった。残酷と言ってもいいかもしれない。小学校のカエルやフナやカイコの解剖なんぞは、何のためらいもなかった。
ところが十代も半ばになると、そんな小動物への無体な仕打ちにぼんやりとした罪悪感を覚えるようになった。なぜか同じ時期に、ヘビやカエルを鷲づかみにするのも生理的に抵抗を感じるようになった。それが大人になるということなのかもしれない。思春期と何か関係あるのだろうか。個人的には、あれだけ平気だったミミズやナメクジにも、触ってみようとは、まったく思わなくなった。こうして我がミミズ離れは進んでいったのである。
伝説や歴史物語でも、ミミズはヘビやカエル(特に蟇)ほどには活躍することがない。祟ることもない。わずかに民間伝承の「ミミズに小便をかけると云々」というのが、小さな祟りと言えなくもないけれど、ここで祟る相手はどうやら男子だけのようである。
調べてみると、日本の歴史において、ミミズが多少なりとも重要な役割を果たすエピソードが三つほど見つかった。そのうちの二つは、大ミミズについてのもの。「仁安2年(1167)5月28日に、長さ一丈ばかりの無数の蚯蚓が斎宮に集ったが、すべて死んだ」(『大日本史』)と、「宝暦年間に丹波国柏原遠坂村の山崩れ跡に、一丈五尺と九尺五寸の大蚯蚓が現れた」(江戸期の随筆『斎諧俗談』)という記録である。一丈は約3メートルだ。昔、子ども向けの雑誌で、アマゾンにアナコンダほどの大きさのミミズが現れたという記事を読んだことがあるが、ネッシーやイエティ(雪男)の類の風説だと思っていた。実はオーストラリアでは、3メートルを超えるメガスコリデス・アウストラリスというミミズが発見されているので、日本の一丈ミミズも荒唐無稽というほどではない。ただし、いまのところ国内で確認されている最大種は、1メートル前後のハッタジュズイミミズ(八田数珠胃蚯蚓)である。それでも十分大きい。
残る一つの記録は、民俗学者、藤沢衛彦がまとめた資料にあった「寛弘3年(1006)7月3日、朝廷で神鏡の改鋳について議している折、一匹の蜿(ミミズ)が現れ、神鏡に向かって進んでいったので、改鋳をとり止めた」というもの。神鏡とは、三種の神器の「八咫鏡」である。八咫鏡は、「天の岩戸事件」の際に石凝戸邊(いしこどりとべ)命がつくったとされ、崇神天皇の時代に伊勢に移されることになる。その際、皇室にはその形代(かたしろ)が残された。八咫鏡は伊勢に移る前に、大和や丹後にも安置されたといい、その場所は元伊勢と呼ばれている。丹後の元伊勢には八咫鏡ゆかりの天の岩戸もある。伊勢神宮の創建は、崇神の子、垂仁天皇の時代であり、八咫鏡が伊勢に到着するまで数十年かかっていることになる。
寛弘3年の記事中の神鏡は、内侍所に安置されていた形代の方で、すでに天徳4年(960)、天元3年(980)、寛弘2年(1005)の三度の内裏火災で焼損し、とくに天元の際には、鏡の形をとどめないものとなった。改鋳を強く主張したのは、藤原道長。一匹のミミズの出現が、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の」の道長の意見を退けたことになる。ミミズ、恐るべし。神鏡はその後も、改鋳された記録はない。とすると源平合戦の折、壇ノ浦から引き上げられたという鏡は何だったのだろう。
最近、道長を退けたミミズのことがあらためて気になりはじめたので、藤沢資料の原典を探してみた。時代から『日本紀略』あたりに見当をつけて、何とか原文にたどり着いた。原文は「蜿」ではなく「小虵」とあった。小虵は普通に考えれば小蛇のこと。やはりミミズでは力不足だったのか。
ただし、「虵」は「のたくるもの」全般も意味する。そういえば、仁安2年に一丈ばかりの無数のミミズが集まったのは伊勢の斎宮。ここも八咫鏡に関係の深い場所である。ミミズと神鏡とはどこかで結び合っているのかもしれない。それに、もしかしたらこれまで大蛇(オロチ)や蛟(ミズチ)の話として伝えられてきたエピソードにも、同じ「のたくるもの」のミミズの物語が紛れ込んでいる可能性だってある。
実は、信州には蚯蚓(きゅういん)神社がある。祭神は蚯蚓大権現。土の神であるミミズの祟りで疫病がはやったため、それをおさめるためにミミズを祀ったのが、その縁起だという。やはりミミズは侮りがたい。祟るべきときには、本格的に祟るのである。

長野県長和町の蚯蚓神社神像


米澤 敬(よねざわたかし)

群馬県前橋市出身。小学校ではは新聞委員をつとめ、中学校では卓球部、高校では生物部に所属した。以後、地質調査員、土木作業員、デザイナーを経て、現職は編集者。