忘れものあります|米澤 敬
17|大人になったら
子どもを前にすると、大人たちは「大きくなったら何になりたい?」とか「将来の夢は?」などという質問をしたがる。子どもたちの多くにとっては、迷惑であり、大きなお世話である。日々を楽しく生きることに精一杯であるし、そんな願望はコロコロ変わるものなのだ。うっかりはっきりした答えを返してしまうと、以降は周囲からそういう眼で見られ続けることになるのも鬱陶しい。もちろん本心から「プロ野球の選手になりたい」とか「科学者になってノーベル賞をとりたい」と思っているのなら、それはそれでいい。しかし「恐竜になりたい」あるいは「クリスマスツリーになりたい」などとぼんやり考えている場合、そのまま口にすると、「変な子ども」だと思われてしまうのも自明である。一方で、ちょっと背伸びをして「世界から戦争をなくしたい」や「二酸化炭素の排出量をゼロにしたい」なんてことを口にした日には、大人は感心した振りこそするものの、内心「お前には無理だ」と思っているだろうことも、想像に難くない。だいいち、夢や希望などというものは、強いられるようなものではないし、持ち合わせなくたってなんの問題もない。
自分はそういうとき、適当に「パイロットになりたい」と答えていた。空気を読んで大人の気持ちを忖度した結果の模範解答である。本当は、「貨物列車の運転手」になりたかった。現在、貨物列車はその本数が減っている上に、ほとんどがコンテナ車になってしまったが、かつては無蓋車、有蓋車、長物車、タンク車、石炭車、ホッパ車(セメントなど粉状のものを運搬)、車掌車(郵便車)など、バラエティ豊富で、積載量によってその形状も異なっていた。そんないろいろな形の貨車の長い列を引っ張って走るということに、憧れていたのである。ミニカーやベースボール・カード、石や貝殻を集めるという蒐集願望とも違う。長じてからの高山祭や祇園祭の山鉾巡行を前にしてわくわくした想いの方に、どこかで繋がっているような気もする。いずれにしても、そんな説明をするのが面倒だったし、すんなり理解されるとも思えなかったので、当たり障りのない「パイロット」でお茶を濁していたわけである。
「祇園祭礼絵巻」(永青文庫所蔵)より
小学校のとき、京都からSが転校してきた。すぐに生徒の間に「天才がやってきた」という噂が広まった。難しそうなクラシックの作品を楽譜初見でピアノで弾きこなし、音楽の知識も先生をはるかに凌駕していた。後の話になるが、中学時代にはシンフォニーを作曲し、群馬交響楽団がその一楽章を定期演奏会でお披露目した。また全国の学生コンクールのフルートの部で、準優勝もしている。誰もがプロの演奏家か作曲家になると思っていた。その彼が、小学校の卒業文集では「将来の夢」のテーマで「市役所の職員」になりたいと綴った。Sを知る生徒たちは皆、唖然とし、あらためて本物の天才というのはこういうものかと納得もしたものである。
Sはともかく当方の将来の夢、あるいは職業希望は日替わり定食のように一定しなかった。あるときは漫画家、あるときは海洋生物学者、あるときは舞台演出家というように。それは高校に入学し、大学を卒業した後まで定まらず、茫洋としたままだった。
それなのにである。20代も後半に差し掛かったあたりで、我が博物学の師、荒俣宏氏に、不意打ちのように尋ねられた。「米澤クンには、将来の夢みたいなものあるの?」うっかり答えてしまった。「世界制覇です」。まるっきりの莫迦である。師は苦笑、いやあれは憫笑だったのだろう。こちらとしてはそれなりの理由も根拠もあったのだけれど、言い訳はすまい。それでも「世界制覇」はないだろうとやっぱり思う。一生の不覚である。大人になったら、空気も読めず、忖度もできなくなってしまっていたのである。
米澤 敬(よねざわたかし)
群馬県前橋市出身。小学校ではは新聞委員をつとめ、中学校では卓球部、高校では生物部に所属した。以後、地質調査員、土木作業員、デザイナーを経て、現職は編集者。
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