忘れものあります|米澤 敬
19|叱られて
このところ、叱られるということがとんと少なくなった。仕事の上でも人間的にも、とりわけ成長したという自覚はないので、ちょっと腑に落ちない。メンタル的には、中学生時代からほとんど変わっていないと思う。そのことを職場の若い同僚に漏らしたら、「そんなこと、みんな知ってますよ」と返された。いささかムッとしないでもなかったが、他人の目からもそう見えているのか、と妙に納得した。つまるところ、ただ歳を重ねたせいで、周囲の人間が叱りにくくなったというだけなのだろう。
30代あたりまでは、編集者として何度も叱責を受けた。そのうち3人の先達との体験は、いまもはっきりと憶えている。
編集の仕事をはじめて間もなく、普通なら言葉を交わすことはないだろうと思う人々へのインタヴューをあえて行ったことがある。その一人が愛国党の赤尾敏さんだった。正真正銘の民族派右翼であり、毎日のように数寄屋橋交差点で街宣車の上からアジテーションを行っていたので、数寄屋橋の怪人という通り名でも知られていた。まず電話で打診。当人からの指示通り数寄屋橋の街宣車の裏まで行くと、いきなり制服姿の大男に取り囲まれた。少なからず後悔しつつ、改めて指定された喫茶店に入り、ひとり赤尾さんのアジテーションが終わるのを待つ。さっきの制服連中をガードに引き連れてきたら嫌だなと思っていると、案に相違して、ただひとりひょこひょこと喫茶店に入ってきた。異貌である。こちらが用意した質問にはいちいちていねいに応えてくれたが、大きな目を見開いたまま視線を外そうとしないのにはまいった。格別怖いというわけではない。質問への応えの落ちがとかく自慢話へと流れることと、その眼光に疲れた。それでも岸・佐藤兄弟を小僧扱いし何百万かの現金を搾り取った話、敗戦直前に卑怯な攻撃をはじめたロシア(ソ連)と紳士的だった中国(台湾)の対比、人間宣言をした昭和天皇批判など、アジテーションで枯れた声で講談よろしくまくしたてた。
別れ際には、「困ったらいつでも来なさい。面倒みてやるから」と、おそらく当方のような若僧に対する決まり文句だろうと思われる台詞を残して、街宣車の壇上へと戻っていった。叱られたのはその後のこと。ある雑誌の「日本特集」で、各界の人々に「日本」について電話で一言ずつコメントをいただくことになった。赤尾さんに電話すると、一喝された。「バッカもの! そんな大事なこと、電話で話せるか!!」もっとも至極である。なにしろ、赤尾のジイ様は、日本の来し方、行く末について、生涯をかけていたのだから。
編集者としては、著者と口論になったことも何度かある。ほとんどの場合、客観的にはこちらからの「いいがかり」だ。「盗む」をテーマにした、電話でのインタビュー依頼のときには、小説家の星新一さんを怒らせてしまった。なにせ、いきなり「あなたの作品スタイルは、誰から盗んだものかをお話しいただきたい」とやったのである。怒って当然である。「僕は、スタイルも内容も、他人から盗んだことはない」と断言する星さんに対して、「そんなことはない、どこかで誰かの影響は受けているはずでしょ」などとさらに失礼を重ね、「盗みと影響を受けることとは、ぜんぜん違う」と一蹴された。振り返ってみると、興奮していたのは当方だけであり、星さんは、生意気で理不尽な編集者をやんわりとたしなめただけで、あくまでも沈着冷静であって、感情的に怒っていたわけではない。結局インタビューは断られたが、「いずれ遊びに来なさい。ゆっくりお話ししましょう」とまで言ってくれた。恥じ入るばかりである。
3人目もまた電話での話。進化学者で形態学者のランスロット・ロウ・ホワイトの著作を翻訳出版した折、ホワイトの日本への最初の紹介者である東大名誉教授の木村雄吉さんに解説をお願いすることにした。とりあえず依頼打診のために電話をすると、いきなり「バカモノ!」と一喝され、そのまま電話を切られてしまった。赤尾さんのときとは違って、当方はほとんど何も話していない。さっぱりわけがわからぬまま、とにかく「おわび」をしなくてはと、ふたたびダイアルした。今度は、勝子夫人が出た。非礼を詫びると、夫人は「ごめんなさいね。私が出ればよかったんだけど、たまたま主人が電話のそばにいたんですよ」。こちらは「はあ」と気の抜けた相づちをうつばかり。「知ってる人は、午前中に絶対電話はしてこないんですよ。主人の寝起きの悪さをわかってますので……」「はあ」「午後になると、ご機嫌なんですけどね」「はあ……ともかく、お願いしたいこともありますので、一度おうかがいして……」「今日は、主人も照れくさいと思いますから、日をあらためて、いらしてくださいね……」「はあ」。
その後、本郷のご自宅を訪れて驚いた。古色蒼然たる洋館なのである。「求道学舎」の看板が掲げられていた。木村雄吉さんは、『歎異抄』の再発見者、近角常観(ちかずみじょうかん)師の門灯を継いで求道学舎を主宰されていた方なのである。その日、木村さんには、長時間にわたって形とホワイトをめぐる話をうかがうことができた。電話とはまったくの別人である。勝子夫人の手料理までご馳走になった。結局、木村さんのアドバイスによって、ホワイト本の解説は、木村さんのお弟子さんにお願いすることになった。
お三方とも故人となってしまった。まあ木村さんの場合は、叱るというより、ただの癇癪だったのだけれど、ちゃんと叱ってくれる大人が少なくなったような気がする。まてよ、あらためて考えてみるのも愚かしいのだが、当の自分がそういう年齢になっているではないか。叱るべきときには、ちゃんと叱らなくてはならないのは、こちらの方なのだ。それでもやっぱり、叱るよりも、叱られたいと思ってしまう。そんなことだから、いつまでたっても精神年齢が中学生状態であることを、周囲に簡単に見透かされてしまうのだ。
米澤 敬(よねざわたかし)
群馬県前橋市出身。小学校では新聞委員をつとめ、中学校では卓球部、高校では生物部に所属した。以後、地質調査員、土木作業員、デザイナーを経て、現職は編集者。
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