忘れものあります|米澤 敬
20|東の西行
かつて通っていた大学に、「死霊研究会」なるサークルがあった。「死霊のはらわた」のようなホラー映画を愛好するわけでもなく、降霊会や交霊会を催す心霊主義者集団でもなく、埴谷雄高の『死霊』の読書会だった。当時の大学生のたしなみとして『死霊』くらいはパラパラ読んではいたが、読書会なんぞをして何が面白いのか、と横目で見ていた。それでもなぜか、そのメンバーたちとは気が合って、よく朝まで居酒屋でたわいない話に興じたものである。いっしょに同人誌もつくった。今となっては、滅多に顔をあわせることはないが、年賀状のやりとりは続いている。
10年ほど前に北海道を訪れた際、旭川に住む死霊残党の一人と、ジンギスカンをつつきながら地ビールを飲んだ。からだに羊の脂の匂いがしみ込んだ頃、話はいきなり西行に飛んだ。その友人は、実家が東北にあったこともあり、いっときは宮沢賢治について、あれこれ調べ回っていた。北上川のイギリス海岸を訪れた話を延々と聞かされ、辟易させられたこともある。それが小林秀雄か吉本隆明あたりを経由して、いつの間にやら西行の世界に迷い込んでいたようだ。反射的に、『山家集』と『西行物語』あたりは目を通したと返すと、『山家集』ではだめで『新古今』で西行の歌に出会わないと、西行の本当はわからないと、たしなめられた。
当時その友人の関心は、西行が子どもとの「歌合戦」に負けたという伝説にあった。いわゆる「西行戻し」の伝説群だ。有名なのは、松島、秩父、日光などのもの。江ノ島や甲駿街道にもある。松島版は、西行が「月にそふ 桂男のかよひ来て すすきはらむは 誰が子なるらん」と一首を詠じて悦にいっていると、居合わせた童子が「雨もふり 雲もかかり 霧も降りて はらむすすきは 誰れが子なるらん」と詠んだ。西行が驚いて、お前は何の仕事をしているのかと聞くと、「冬萌(ほ)きて夏枯れ草」を刈ってなりわいとしていると答えた。西行がその意味がわからずにいると、童子から才人が多い霊場松島を訪れると恥をさらすぞと諭されてこの地を去った、という伝説。ちなみに「冬萌きて夏枯れ草」とは「麦」のこと。
秩父では、橋のたもとで乙女が織っている絹が欲しくなった西行が、「その絹を売るか」と尋ねると、「ウルカとは 川の瀬にすむ 鮎のはらわた」と返された。西行はこれを聞き、自分の未熟を恥じて引き返したという。なぜ西行が田舎の子どもたちの頓智のような返しでやりこめられなくてはならないのか、得心がいかぬ、と友人は言う。
地ビールの酔いにまかせて思い出したのは、西行が平将門を「退治」した藤原秀郷の末裔であるということ。西行が鎌倉を訪れた際にも、源頼朝からしきりに先祖、秀郷の話をせがまれたともいう。そもそも当方の西行への興味も、南方熊楠の『十二支考』で、西行が俵藤太こと、藤原秀郷の九世孫であることを知ったのが発端だった。俵藤太といえば、瀬田の唐橋で竜女に頼まれ三上山の大百足を退治して、琵琶湖底の竜宮に招かれたという説話で知られる。もちろん「史実」では、平将門を討った朝廷側の功労者だ。ただし将門討伐以降、秀郷がどんな生涯を送ったのかは、定かではないらしい。
西行、すなわち佐藤義清イコール天慶の乱平定者の子孫という図式は、西行の存命時においては一般的な認識だったはずである。ならば、将門びいきの気風が残る東国で、西行を揶揄するような伝説が生まれたのも頷けるというものだ。だいいち江戸時代になっても、秀郷の子孫、特に藤原姓、佐藤姓の者は、将門を祀る神田明神を詣でてはならないとされていた。逆に、秀郷による不動明王への戦勝祈願を縁起とする成田山新勝寺には、神田明神の氏子は参拝しない。
そんなその場の思いつきを口にすると、友人は「西行戻し」の伝説は東国に限ったわけじゃないと反論してきた。そうかな、とは思いつつ、とりあえず、中央政府や乙にすました都文化への反発を前提とした西行揶揄だったのだろうということに落着させておいた。飯尾宗祇にも「宗祇返し」の伝説があったし、小野小町や弘法大師にまつわる伝説もどこかで関係がありそうだ。無論、西行や宗祇の相手をした童子や乙女を、土地の神の化身、あるいは神使として解釈することもできる。
いずれにせよ、以来、西行についてはどうも釈然としないままである。東大寺再建の勧進をしたこともいまひとつ納得がいかないし、そもそも4歳の娘を縁側から蹴り落として出家したというのも、西行に対して好意的とはいいがたいエピソードだ。また、高野山で死者の体を集めて人造人間をつくったという、フランケンシュタインめいた伝説も残されている。しかし、そんな憶測に憶測を重ねていても埒はあくまい。まずは一度、ちゃんと『新古今』でも読んでみるのが筋なのだろう。もしかすると、単に生身の西行がとっても嫌な奴だっただけなのかもしれない……ありそうなことである。
米澤 敬(よねざわたかし)
群馬県前橋市出身。小学校では新聞委員をつとめ、中学校では卓球部、高校では生物部に所属した。以後、地質調査員、土木作業員、デザイナーを経て、現職は編集者。
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