忘れものあります|米澤 敬
21|街中華の「が」
仕事場の近所には、食事に行きたくなるような店が少ない。それでも昼飯はとらねばならない。基本的には食べられればいいし、特段のこだわりもないのだが、やはり少しでも気分よく食事のできる店を選びたくなる。結局、週に一度か二度、中国人一家が経営している中華料理店に足を運ぶようになった。四川料理と銘打ってはいるが、まあ普通の街中華である。ときどきフロアの隅に化学調味料のダンボール箱が積まれていることなどには、眼をつむることにしている。
その店の壁いっぱいに、パソコンでつくったと思われる写真入りメニューが貼られている。中に「スパアリブの胡椒炒め」というのがあった。もちろん「スペアリブ」の誤記である。片仮名の「パ」と「ペ」は確かに似ている。それがいつの間にか、「パ」の二本線がマジックペンで繋がれて「ペ」になっていた。日本人客か誰かに指摘され、修正したのだろう。
壁のメニューにはもう一つ、見るたびになんだかお尻のあたりがムズムズするような表記がある。メニューのいちばん上に、いちばん大きな文字で書かれた「メニューが全て税込表記です」である。「メニューが」の「が」は、「は」でないと気持ちが落ち着かない。こちらの表記はいつになっても修正される様子がない。意味は十分通じるし、間違いとは言えないものの、変だと感じる日本語ネイティブの客は少なくないはずだが、ここが「が」でなく「は」でなくてはならない理由を、きちんと伝えるのは確かにちょっと面倒だ。例えば「私が日本人です」と「私は日本人です」とういう文章は、かなり印象が異なる。その異なる印象は、なかなか簡潔には説明しがたいものだ。また、いまは亡き志村けんによるコントの決め台詞「そうです、私が、変なオジサンです」の「私が」が「私は」だったら、決めゼリフにはならないと思う。
この「が」と「は」の使い分け、小学校の低学年ですでにある程度は身についていたように思う。むしろ日本の子どもたちに納得がいかないのは、同じ助詞の「を」と「へ」の表記だろう。現代の日本では、「〜を」の「を」は「お」、「〜へ」の「へ」は「え」と発音するのが普通だからである。また、ときおり「へ」と「に」で迷うこともある。「は」と「が」より、「へ」と「に」の使い分けの方がさらに厄介かもしれない。個人的には、表記と音が一致している「に」を選ぶ傾向がある。そういえば前述の「は」も音は「わ」だ。もしかしたらかの中国人一家は、表記と音が紛らわしい「は」を避けて、あえて「が」を使ったのかもしれない。
よく中学高校の6年間も英語を勉強するのに、日本人には英語力がないと言われる。耳が痛い。しかし、小学中学高校の12年間で、われわれは日本語の何を身につけたのだろう。せいぜい、漢字と、日常的にはほとんど役に立つことのない活用形を暗記させられたことくらいしか印象に残っていない。古文や漢文もやったとはいえ、近代以前の日本語を即座に読解することなどほとんど不可能だ。それならかつての寺子屋でやっていた四書の素読の方が、本来の意味での教養という面では有用だと思う。
あくまでも自分についての話ではあるけれど、翻刻されていない限り、消息や墨跡、あるいは単純な記録さえ、ただ音読することも無理だ。とりわけ平仮名はどう読んでいいのかさっぱりである。変体仮名という難物もある。江戸時代の庶民の娯楽だという黄表紙の類も、まったく歯が立たない。
曲亭馬琴『傾城水滸伝』(黄表紙)より
古くから出版文化が定着した国や地域で、こんな断絶のあるところは他にないかもしれない。簡体を採用した中華人民共和国あたりは、多少は似たような状況ではあるのだろうが、日本ほどではないはずだ。
ヨーロッパでも、ラテン語が障壁になっているとは言われるものの、17世紀初頭の『ドン・キホーテ』や18世紀の『ガリバー旅行記』は、同国人ならそれが初版本であっても読むことは難しくない。一方、こちらは19世紀の『膝栗毛』でさえ、お手上げである。
英語や漢文はともかく、日本語くらいちゃんと読み書きできるようになりたいと思う今日この頃である。
スイフト『ガリバー旅行記』初版扉
十返舎一九『東海道中膝栗毛 』本文挿絵
米澤 敬(よねざわたかし)
群馬県前橋市出身。小学校では新聞委員をつとめ、中学校では卓球部、高校では生物部に所属した。以後、地質調査員、土木作業員、デザイナーを経て、現職は編集者。
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