忘れものあります|米澤 敬
22|舌切雀の法則
子どもは総じて、大きいものが好きである。恐竜(必ずしも巨大であるわけではないが)をはじめとして巨大トンボのメガネウラ、マンモスなどの古代動物、セコイアやラフレシアなどの無闇に大きな植物、人工物ならエンパイアステートビルやピラミッドや仁徳天皇陵。そういうものごとの情報に触れると、わけもわからぬままにドキドキワクワクしたものである。太陽の直径が地球の百倍であり、広大な宇宙にはその太陽の直径の数千倍もの巨大恒星があると知ったときには、実際に気が遠くなった。
この手の知識はもっぱら、子ども向けの科学読み物や科学雑誌、小学館や講談社の図鑑の類から仕入れた。当時、気に入らなかったのは、そんな子ども向けの本が、どれもこれもみな大判だったこと。いずれも週刊誌(たとえば『週刊文春』)かそれ以上の大きさであり、文字も大きく、なんとなくこちらが軽く見られているような気分になった。だから大人向け、というか一般向けの北隆館や保育社の本格的な図鑑に出会ったときには、「こうでなくてはいけない」としみじみ思った。それらは月刊誌(たとえば『文藝春秋』)くらいのサイズで、ハードカバーでもあった。のちに、大人向けだからといって、図鑑が必ずしも小さいわけではないことを知った。18〜19世紀の博物図鑑は結構大判が多い。ナポレオンが作らせた『エジプト誌』に至っては、畳ほどの大きさである。それでもやっぱり個人的には、ずっと小ぶりのビュフォンの『一般と個別の博物誌』(ソンニーニ版)あたりに強く惹かれた。
つまり驚きに満ちたもの、ワクワクドキドキするものこそ、できればコンパクトな箱(本)の中にぎっしりと詰まっていて欲しいのである。
もともと子ども向けの本は、小さかった。江戸時代の赤本や黒本も小さいし、アリスもピノッキオも初版は小さい。ピーター・ラビットやミッフィだってそんなには大きくない。子ども向けの書物が大型化したのは、親子や子ども同士がいっしょに読みやすくするための工夫だったともいう。幸か不幸か、我が家では両親ともに本好きで、子どもにはふんだんに本を買い与えてくれながらも、読み聞かせのような真似はしなかった(こちらが忘れているだけかもしれないが)。だからはじめから、本は一人ぼっちで味わうものであり、中途半端に大きいのは鬱陶しいと感じていたのだろう。いつしか大きな本は散漫で、小さい本こそ充実しているという、たいした根拠のない偏見が染み込んでしまった。
ことは本には限らない。土産物や贈り物も、大きくてかさばるものより、小さくて重さを感じるものの方が嬉しい。大きな箱と小さな箱、どちらを選ぶかと問われれば、迷うことなく小さい方を選ぶ。舌切雀の爺さんと同じである。
舌切雀の昔話には、様々なバリエーションがある。爺さんと婆さんの役割が入れ替わっているものや、雀が爺さんの若い愛人のメタファーとして解釈できるような話もある。可愛がっていた雀が、婆さんがこしらえた障子の張り替えのための糊を食べ、激怒した婆さんに舌を切られて姿を消したので、爺さんがその行方を探すのだが、目的地(雀のお宿)にたどり着くために、糞尿にまみれ、血や汚水を飲まされるというエピソードが盛り込まれているものもある。
結局、雀のお宿で歓待された無欲な爺さんが選んだ小さな葛籠には、金銀財宝が詰まっており、欲張り婆さん(ちなみに婆さんはお宿でもてなされた際、折敷には厠の敷板が用いられた)が選んだ大きな葛籠からは、魑魅魍魎や蟲蛇が飛び出し、話によっては婆さんは絶命してしまう。大きな葛籠は、ちょっとしたパンドラの箱のようでもある。
あらためて考えてみると、この話、いろいろ気になってくる。爺さんは別に無欲だったわけではないような気もする。自分の想いを合わせて考えると、小さい方を選んだのは、それはそれで欲と計算のなせる技だとも思えてくる。いずれにしたって、ここは小さい方を選ぶのが常識的な判断であり、正解なのである。しかしである。金銀財宝、欲しくないわけではないけれど、そこには所詮経済的価値しか入っていない。魑魅魍魎が詰まっていた大きな葛籠の方こそ、好奇心や想像力をたっぷり満足させてくれる。だったら譲り受けて中身を見たいのは、大きな葛籠ということになる。
大きな葛籠と小さな葛籠、どっちを選んだらいいのだろうか。
米澤 敬(よねざわたかし)
群馬県前橋市出身。小学校では新聞委員をつとめ、中学校では卓球部、高校では生物部に所属した。以後、地質調査員、土木作業員、デザイナーを経て、現職は編集者。
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