忘れものあります|米澤 敬

23|線虫くんの星


 

よくできたルールがゲームを面白くする。ルールは単純でも複雑でもいい。囲碁も将棋も、そのルールによって多様性と意外性が生まれる。それは生物の発生や進化にも当てはまると思う。ルールが変わればゲームも変わる。ちょうどサッカーからラグビーが生まれたように。たとえて言えば、ラグビーはサッカーから進化したのである。もちろん、だからといってラグビーがサッカーよりも優れているというわけではない。猿の仲間から進化したホモ・サピエンスが、猿より優れているわけではないのと同じだ。
音楽では、平均律というルールがつくられたおかげで、民族文化に根ざしたそれまでの音楽は、いっとき「絶滅危惧種」のような立場に追いやられた。そんな弊害はあったものの、平均律によって転調が容易になった結果、以降、クラシックからロックにいたるまで、多様で豊かなメロディが誕生したことも事実である。
また一見面白そうなゲームであっても、誰かがそこに必勝の方法を発見した途端、ゲームの面白さは消滅する。仮に藤井聡太あたりが、必勝の手筋を見出したら、将棋は多様性も意外性も失ってしまい、ことによってはその歴史に終止符を打つことにもなりかねない。生物だったら、ただ一つの生物種が環境を独占すれば、生態系はその種も含めて、まもなく消滅することになるだろう。
人間の手前勝手な見方では、地球上でもっとも繁栄しているのは哺乳類を含む脊椎動物である。しかし哺乳類の種数は、未発見のものをどれだけ多く見積もっても1万に満たない。脊椎動物全体でも10万には届かないだろう。一方で、昆虫の種数はべらぼうに多い。発生のルール(拘束力)が厳格であるにもかかわらず、あるいは厳格であるからこそ、記載されているだけでも約100万種もいる。外骨格、脚は三対、体節も三つ、という基本プランのもとで、昆虫は多様なかたちを生み出してきた。そもそも昆虫の「昆」は「多い」という意味だ。特に甲虫の仲間は色もかたちも多様を極める。そのあたりが、老若男女を問わず、昆虫に魅せられる人間が多い所以だろう。同じ節足動物でも、拘束力の弱そうなムカデやヤスデなどの多足類は、脚や体節の数は様々でありながら、人の目からはどれもこれも大差ない姿に見えてしまう。
動物は、標準的な分類でも30以上のグループ(門)に分けられる。そのうち大方にとって馴染みのあるのは刺胞動物(クラゲ、イソギンチャクなど)、軟体動物(タコ、イカ、貝など)、節足動物(エビ、カニ、そして昆虫など)、棘皮動物(ウニ、ナマコ)くらいだろう。いずれも食卓に上ることがあるものたちだ。ミミズやゴカイなど(環形動物)も馴染み深いが、これらも釣りや農業を介して食卓に関係している。中生動物や動吻動物、内肛動物や毛顎動物などは、どんな姿の動物なのかもなかなか思い浮かべられないはずだ。そのほとんどが食べられないせいだ(あるいは食べたいと思えないから)。
そんな中で、この頃、線形動物(線虫類)が気になり始めた。カイチュウやギョウチュウの類であり、あまりありがたくないイメージのある動物グループだ。形はどれも、節のないミミズのようなもの。ところが生物学の本には、この線虫の一種である、C・エレガンス(Caenorhabditis elegans)の名が、やたらに登場する。細胞数が1000前後で、多すぎずも少なすぎずもなく、その発生過程を観察分析するのにお手頃であるためのようだ。C・エレガンスという名前もいい。ロックバンドのネーミングにも使えそうな学名だ。線形動物はまた、電車内の広告でも「線虫くん」としてよく目にするようになった。仲間由紀恵をキャラクターとする「癌リスクの早期発見システム」の広告である。線虫の嗅覚(物質認知力)を応用して、癌の早期発見の手法が確立したのだという。これまで嫌われたり、等閑視されてたりしてきた「線虫くん」にとっては、誠に目出度いことである。無論のこと、人の役に立つかどうかは当の「線虫くん」にとってはどうでもいいことだろうし、個人的に線虫が気になっているのには、また別の理由がある。
昆虫の種数は未発見のものを含むと1000万種を超えるという推測があり、地球は「昆虫の星」であるともされてきた。ところがである、近年の推定では、線虫の未発見種の総数は1億種を超えると推定されているのだ。しかも地球上の生物のすべて(植物も含めて)の重さ(バイオマス)の15%を線形動物が占めているのである。つまり地球は「線虫くんの星」だったのである。「飢餓状態では幼虫に変態し、尻尾で立ち上がるようになる」、「静電気を使って空中に飛び上がり、昆虫にとりつく」、「4万年間仮死状態になったあと、再生した」などのエピソードはあるものの、残念ながら、線虫の姿の多様性については、いまのところ具体的にはイメージできないままにいる。どんなルールがそんなバラエティを生み出したのかも、よくわからない。もしかすると、動吻動物や内肛動物だって、人の目の届かないところで、多様で意外なゲームを繰り広げているのかもしれない。


米澤 敬(よねざわたかし)

群馬県前橋市出身。小学校では新聞委員をつとめ、中学校では卓球部、高校では生物部に所属した。以後、地質調査員、土木作業員、デザイナーを経て、現職は編集者。