忘れものあります|米澤 敬
41|普通が見えない
実家の住所が、いつの間にか「大手町」という凡庸な名称になってしまった。かつては「南曲輪町」だった。関東七名城の一つ前橋城(厩橋城)の城域だったことによるのだが、「曲輪」が色里の「廓」も意味することから、余計な配慮がなされたのかもしれない。残念ながら前橋城は石垣と堀の一部しか現存していないので、曲輪町の名は、城の記憶を留める数少ないよすがだった。実家で物置を建てる際に、地面を掘り返して大量の砂が出てきたことがあり、城内の土俵の跡地だったのではないかともいわれた。
家の前には小さな舗装道路が走り、その両側は多少の高低差がある。我が家はその高い方の土地にあった。父親が林業会社を経営していたこともあって、銅葺の門のある事務所を兼ねたお屋敷もどきの家だった。もっとも間もなく、その会社は倒産し、母子で内職生活を送ることになる。それはそれで楽しくないこともなかったが、それはまた別の話である。
家の反対側、低い土地のちょっとジメジメした印象の一画には、俗に「食い詰め横丁」と呼ばれる長屋が並んでいた。高い方と低い方は、ほとんど没交渉で、子どもたちも互いの領域に立ち入ることはなかった。
あるとき、ボランティアで市の子供会の世話役のようなことをしていた大学生が、学生結婚をしてその横丁に引っ越してきた。もしかすると結婚をめぐって何らかのいざこざがあって、家を追い出されたのかもしれない。その顔見知りの大学生に誘われて、はじめて長屋の中に入ることになった。立て付けの悪い引き戸を開けると、1畳ほどの土間、その先に3畳間、そして小さな台所のついた6畳間があった。3畳間の小さな本棚とその周辺に山のように積まれた岩波文庫が輝いて見えて、羨ましかったことを憶えている。我が家の空間が無駄に広いとも思った。
もちろんいまは、「食い詰め横丁」は姿を消している。「食い詰め横丁」ばかりではない、昔ながらの長屋はどこの街にもあまり残されていない。都市部の長屋は公営団地へとその姿を変え、さらには「マンション」と称する日本型集合住宅が増殖している。「マンション」とは呼ばれていても欧米のそれとは全くの別物であるし、ニューヨークやパリのアパートやアパルトマンからの影響も感じられない。むしろやっぱり、その原型は長屋にこそあるのだと思う。
日本の建築文化をたどってみても、長屋をはじめ、大多数の日本人がどのような住空間で日々を送っていたのかは、あまり見えてこない。高床式、寝殿造、数寄屋造、あるいは城郭建築や寺社建築、わけても桂離宮や伊勢神宮のような特別な建築ばかりに日本らしさが求められている。京町家(この呼び方は昭和40年代以降のもの)や東北の曲り家、合掌造などが紹介されることはあっても、ほとんどの「その他大勢」にとっては無縁だったはずである。『方丈記』や『徒然草』の世界も特殊例である。多くの人にとって当たり前のもの、普通のものは、それが当たり前で普通であるために、記録には残りにくいのだろう。
「住」だけではない。「食」も和食といえば京会席(懐石)や、寿司、天ぷら、蕎麦などの江戸の外食ばかりが取り上げられ、「衣」も明治以降の和装をもって日本的だとされる。江戸の庶民が着付け教室なんぞに通うわけもなく、当時の普通の着物がどのようなものか、そしてそれをどのように身につけていたのかということについても、あまり話題にされることがない。江戸期以前の「普通」については、かろうじて浮世絵や草双紙、あるいは「一遍上人絵詞」のような絵巻物、あるいは時代小説を通じてしか、うかがい知れないのである。
「普通」は見えにくいものなのだ。さらに気になるのは、現在ただいまの「普通」である。これがまた、なかなか見えてこない。日本の「普通」はどこかに行ってしまったようにも思える。
米澤 敬(よねざわたかし)
群馬県前橋市出身。小学校ではは新聞委員をつとめ、中学校では卓球部、高校では生物部に所属した。以後、地質調査員、土木作業員、デザイナーを経て、現職は編集者。
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