忘れものあります|米澤 敬

52|蟲めづる


 

“Kinokunizaka is a long slope in Tokyo.” 中学校の英語の教科書のこの一節、なぜかいまでも覚えている。そんなことをあらためて思うのは、NHKの「朝ドラ」による。紹介したのは、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの「Mujina」の冒頭。「Mujina」はいわゆる「再度の怪」で、のっぺらぼうの話だ。八雲というとそんな怪談のイメージが強いけれど、ドラマでも少々触れられていたように、日本人と虫についての論考というか、随筆も少なくない。

かつて『日本人の脳』という本が話題になった。著者の角田忠信氏には、直接お会いして話を伺ったこともあるのだけれど、どうしても腑に落ちないことがあった。広く流布された「日本人には虫の声が聞こえ、外国人には雑音として聞こえる」という指摘である。当方の頭にあったのは、イソップ寓話の「アリとキリギリス」だった。ご存知のように、アリが働き者で、キリギリスが遊び人の楽士である。別にキリギリスのように生きたっていいのではないかという人生観はさておき、キリギリスを楽士に喩えるということは、西洋でも虫の音を音楽として聴く耳があったのではないかと思う。

八雲が教えてくれたのも、ギリシアの古典文学には「鳴く虫」への愛惜をテーマにしたものが散見されるということだった。アナクレオンは蝉の讃歌を綴り、メリエジアは「声の糸、織りては恋に迷わする、眠りに誘うコオロギの君」と詠んだ。どうやらギリシア古典では、蝉の声を賛美することが多いらしい。逆に日本ではツクツクホウシやヒグラシ以外、とりわけアブラゼミやクマゼミなどは、その声は喧しいとされる。件の「岩にしみ入る」も、芭蕉が蝉の鳴き声を音曲として聞いていたようには思われない。ちなみに「日本人だけが虫の声を音楽のように聴く」という言説は、現在ではほぼ否定されている。虫の声の聴き方は大脳生理学の問題ではなく、文化的刷り込みによるものだということなのだろう。

もう一つ、八雲の虫論で興味深かったのは、明治期の日本では、虫が商品として「生産(あるいは捕獲)」され、流通していたということだ。蛍の産地としては近江石山が有名で、蛍問屋というものまであり、捕り子や仲買人たちから大量の蛍を仕入れ、京阪地区の旅館や料亭に出荷していた。夜間の宴会で庭に蛍を放って楽しんでいたのである。死んだ蛍も、大阪の薬種問屋が引き受けて漢方薬の調剤に用いていた。さらには指物師たちが竹の曲物を作る際には、「蛍油」が不可欠だったともいう。

鳴く虫の方は、江戸後期に商売化されており、越後出身で江戸でおでん屋を営んでいた「忠蔵」がスズムシ販売を始めたのを嚆矢とする。その後、「虫安」、「虫源」、「虫清」、「虫徳」など、鳴く虫の販売業はけっこう流行したようだ。
そういえば、昔々、我が家でもスズムシを飼っていた。夏も終わりに近づくと、物置小屋から一抱えほどもある漬物壺が持ち出され、間もなくその壺の中からスズムシの鳴き声が聴こえてくる。家人が虫を捕ったり買ったりするところは見たことがないので、どうやら壺の中で自然繁殖させていたのだろう。自然繁殖とはいっても餌やりなど、それなりのノウハウはあるはずなのだが、残念ながら見聞したことがない。当方も昆虫少年ではあったのだけれど、こちらはもっぱら虫を捕ってきては標本にすることばかり考えていた。虫の息の根を止めることに専心していた我が身と、虫を生かし続けていた家人との、彼我の隔たりを思う。

  蟲よ蟲ないて因果が盡くるなら……乙州


米澤 敬(よねざわたかし)

群馬県前橋市出身。小学校ではは新聞委員をつとめ、中学校では卓球部、高校では生物部に所属した。以後、地質調査員、土木作業員、デザイナーを経て、現職は編集者。


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