忘れものあります|米澤 敬

51|連句の寅彦


 

『日本の芸道六種』(桑田忠親著)という本がある。日本の遊芸の基本に立ち返る際には、便利に使わせてもらっている。六種とは、書、和歌、茶、花、能、そして連歌である。前の5つについては大方の現代日本人にとっても得心できる選択だろうが、6つ目が聞香(香道)や大和絵や浄瑠璃ではなく連歌であることに、多少の違和感を覚えるかもしれない。おそらく明治以降の西洋文化の影響で、「個人」や「個性」が必要以上に重視された結果、茶や花に代表されるように個人化、歌や書のように作品化が進んだためだとも思われる。連歌は個性や作品性にはあまり馴染まない遊芸であり、近代化から取り残されたのだ。もともとは書や茶や歌にしても、馴染まないのは同様だったはずだが、無理矢理に個人の技芸にアレンジすることで現代まで命脈を保ってきたのだろう。

ときどき寺田寅彦の随筆や断章を無性に味わいたくなる。寅彦は物理学徒であるとともに、漱石門下の俳人でもある。だから科学者でありながら、「化け物がないと思うのはかえってほんとうの迷信である。宇宙は永久に怪異に満ちている。あらゆる科学の書物は百鬼夜行絵巻である。それをひもといて怪異に戦慄する心持ちがなくなれば、もう科学は死んでしまうのである」なんてことも軽々と言ってのける。その寅彦が日本的方法として注目していたのが連句だった。映画の愛好者でもあった寅彦は、こんなことを言っている。「映画では筋は少しも重要なものでない。人が見ているものは実は筋でなくしてシーンであり、むしろシーンからシーンへの推移の呼吸である」。当時、セルゲイ・エイゼンシュテインは「戦艦ポチョムキン」においてモンタージュ理論を確立しており、寅彦もそのことは知っていて、さらに連句的な映画の登場を待望していた。日本文化の愛好者でもあったエイゼンシュタインは一方で、日本の伝統はすべてモンタージュ的であると指摘している。

連句は連歌から派生した。連歌では複数の作者が連作するが、その際、全体を統制する「賦物」などのルールがある。シンプルなものでは、長句には鳥の名、短句には魚の名を読み込む「賦魚鳥連歌」がある。また、前後の句の関係は近すぎても遠すぎても失格とされ、つかず離れずが理想とされた。

連句でも、春秋三句以上連ねる、夏冬は一、二句、一つのまとまりに月あるいは花の句を配置すること、前句より前の句と同じ趣意であったり、同じ言葉を使ってはならないなどの決まりごとがある。

連歌はまた茶や花や能のあり方にも大いに影響を与えている。昨今、日本の美点を喧伝する際の常套句のようになってしまった「おもてなし」も、もともとは連歌の「持成」である。会を開く前の亭主の用意のことであり、たとえば、あらかじめ墨を擦っておき、参加者が筆を使うときに墨の状態がほどよく落ち着くようにしておく。ただのホスピタリティなんぞではなかったのである。個人的には、これらは編集の要諦にも繋がると思っている。室町期に育まれた遊芸の凄さには、あらためて感心する。

などと思っていたら、実はその連歌的方法にはさらに前があったことを国文学者の出雲路修の指摘によって知った。平安前期に成立(序文は787年)した『日本霊異記』、正式書名『日本国現報善悪霊異記』である。「現報」とは現世の因果応報であり、「生報」(主に前世の因果)、「後報」(来世の因果)と対応するものだ。『日本霊異記』は言ってしまえば、説話や伝承の類を仏教普及を目的として年代順に編纂したものである。ただしその組み立てをつぶさに見ていくと、上巻第十二縁には「夜、戸を閉ざした家の中に入る」という一節があり、第十四縁には「夜、戸を閉ざした家を出る」という表現がある。また上巻の第一縁は「生きても死にても雷を捕らえた栖軽の話」、中巻の第一縁は「死んでからも災いをもたらした長屋親王の話」、下巻第一縁は「死んでからも法花経を読んだ禅師の話」である。つかず離れずの「去嫌」だ。連歌成立のずっと前から、日本はこんな手の込んだ「遊び」にうつつを抜かしていたのである。


米澤 敬(よねざわたかし)

群馬県前橋市出身。小学校ではは新聞委員をつとめ、中学校では卓球部、高校では生物部に所属した。以後、地質調査員、土木作業員、デザイナーを経て、現職は編集者。