忘れものあります|米澤 敬
54|幻の味
チョコレート、生クリーム、あんこの三択なら、迷うことなくあんこを選ぶ。大人になってからは「粒あん」一択である。
家人は誰も車の免許を持っていなかったので、遠出といえばもっぱら国鉄に頼ることになっていた。生地住家は上州前橋だが、父の実家は岩手の鶯宿、母は信州下伊那だった。鶯宿は遠いので(他にも理由はあったが)、夏休みには何年かに一度、下伊那の上片桐までの鉄道旅行を敢行した。ちなみに鶯宿までは、両毛線で高崎まで、高崎線で上野まで、東北本線で盛岡まで、さらに田沢湖線の雫石で下車して、あとはバスで30分ほどの行程。下伊那までは、高崎から信越線で篠ノ井まで、そこから篠ノ井線で塩尻へ、塩尻からは中央本線でということになり、岩手は遠いと書いたが、群馬から隣県長野の目的地までたどり着くのも、ほとんど一日がかりだった。
当時、国鉄路線では信越線がお気に入りだった。なにしろ横川軽井沢駅間のアプト式が嬉しかった。途中スイッチバックもあるし、トンネルも多いので、蒸気機関車時代は、トンネルに入るたびに機関車の煙が車内に入らないよう、乗客がいっせいに窓をバタバタ閉めるのもおもしろかった。アプト式というのは急勾配を歯車を使って運行するもの、スイッチバックはやはり急勾配をジグザクに登降坂する方式である。
高校時代も、友人と語らって毎年長野の善光寺で初詣をすることにしていた。とっくに紅白歌合戦には辟易していたこともあり、大晦日の宵に高崎で信越線に乗る。アプト式の機関車に付け替えるため、横川と軽井沢ではちょっとした停車時間があった。軽井沢駅のホームで、少々早めの年越しそばをすするのも恒例だった。これがめっぽう旨かったのを覚えている。そういう状況で食べたことによる気のせいかとも思っていたが、のちに松代出身の知人にその話をしたところ、「確かに軽井沢の立ち食いそばは格別だ」と断言していたので、それなりに旨かったのだろう。いまはどうなのか知らない。
高校の初詣では、夜半に善光寺で手を合わせ、そのあとは深夜営業している喫茶店で煙草をふかして、始発までの時間をつぶしたものである。
幼時の実家への帰省の際は、軽井沢でそばを食べた記憶はない。横川の釜飯か高崎の鶏めし弁当である。どちらも駅弁ではあるが、たいていは帰路で購入して、家に帰ってから食べていた。
伊那に向かう際に夜行列車の車中で食べたのが、「力餅」である。関西の「赤福」に近いかもしれない。この甘い「駅弁」はいまはもうない。国鉄がJRになり、めでたく長野新幹線が開通したとき、横川、軽井沢間の在来線はアプト式とともに廃止されてしまったのだ。「力餅」は、横川軽井沢間にただ一つあった山中の駅「熊ノ平」のホームで売っていた。国鉄民営化の弊害、あれこれ言われているけれど、個人的には隣の県に行くのに新幹線を使うしかないことに腹が立つ。そして何より熊ノ平の「力餅」が食べられないという理不尽が許せなかった。
最近、軽井沢の街を歩く機会があり、調べてみると、旧碓氷峠見晴台の近くで「力餅」が食べられるという。駅から見晴台まではるばる歩いて懐かしの「力餅」にありついた。ちょっとお洒落にアレンジされていて、肩透かしを食わされた。
「力餅」はもともと、碓氷峠を越える前に「力」をつけるためのもので、江戸時代からあったらしい。提供している店も複数あるようだった。見晴台の「力餅」は「しげの屋」、熊ノ平のそれは「玉屋」のものなのだそうだ。玉屋のものも近隣のドライブインで入手できるらしい。でも、薄暗く石炭臭い夜行列車の中で食べた「力餅」は、やっぱり「幻」のままにしておくのがいいようだ。いずれにしても、「力餅」は、我が「あんこ好き」の原点であることに違いはない。
米澤 敬(よねざわたかし)
群馬県前橋市出身。小学校ではは新聞委員をつとめ、中学校では卓球部、高校では生物部に所属した。以後、地質調査員、土木作業員、デザイナーを経て、現職は編集者。
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