忘れものあります|米澤 敬
59|その男、凶暴につき
これまで何人を相手にインタヴューしてきただろうか。もしかすると1000人を超えるかもしれない。有名無名、社会的立場の如何に関わらず、いざインタヴューとなると、いまでも緊張する。もちろん、多少の予習はする。怖ろしいとか腰がひけるということは、まずない。ほぼ唯一の例外が哲学者の松山俊太郎さんだった。
担当していた雑誌で「闘い」を特集テーマにしたときのことである。松山俊太郎の名前は知っていた。インド哲学や華厳経や蓮の文化史についての研究者であることも承知していた。しかしテーマは「闘い」である。編集長からこのテーマなら松山さんは外せないと厳命された。聞けば、松山俊太郎という人は、喧嘩っぱやく無類に強いのだそうだ。喧嘩といっても吉本隆明のように論争の猛者なのではなく、文字通り腕力勝負の喧嘩なのである。そんなテーマじゃ、予習しようもない。先輩にリサーチすると、とにかくすぐに殴るらしい。その先輩は松山さんに何度か会ったことがあるものの、遠巻きにするだけで、目も合わせられなかったというから、あまり当てにはならない。お前のような半端者が行くと、いきなり殴られるから心しておけよ、などと脅されもした。やむなく覚悟はしたものの、やはり痛いのは嫌だ。
取材申し込みの電話での応対は穏便だったが、同行のカメラマンは粗忽なところがあるので、くれぐれも粗相のないよう釘を刺しておいた。
自宅では、着流し姿の本人がにこやかに出迎えてくれた。腕力はありそうだけど、それほど怖そうではないというのが第一印象である。そんな安堵も束の間、テーブルをはさんで相対すると、さっきは懐手だったので気がつかなかったが、松山さんの左手首から先がない。右手も指が3本である。小指のないその筋の人にもインタヴューしたことはあるが、それにしてもこの人、いったいどんな修羅場を潜ってきたのだろかと、また不安になった。インタヴューを始めようとすると、その3本の指で器用にウイスキーをグラスになみなみと注いですすめてくる。当方は酒に弱い。弱いけれども、うっかり遠慮しようものなら、鉄拳が飛んでくるかもしれない。進退極まるとは、このことである。
後で知ったが、松山さんは戦後まもなくの学生時代に手榴弾の分解を趣味にしていた。そんなこと趣味として成立するのだろうか。いくら混乱期だとはいえ、そうそう簡単に手榴弾が手に入るとも思えない。その趣味にいそしんでいるとき、手榴弾が暴発して左手と右手の指2本を失ったのである。
インタヴューの方は暴発もなく、つつがなく終了。こちらの覚悟を告白すると、いくら俺でも理由もなく人は殴らないとおっしゃっていた。
ここでインタヴューの一端を紹介しておく。
「僕のケンカは手を出すのはだいたいこっちの方が早いけど、そのときの原因は向うが作っている。もっとも近頃はモウロクしてきて、なんでケンカになったのか、思い出せないことが多い。後から考えてもわからないというか、相手をぶんなぐった一瞬後でも、原因がよくわからない。だけど、こいつとならケンカしてもいいだろうというヤツとだけケンカをしているつもりだ。酔っぱらって道の中央を四人位で歩いて来てよけようとしない、なんていうのは充分なぐっていい。むしろ、ぶんなぐるべきだと思う。そういうのがそのまま生存しているのは非常に良くないと思うからなぐる。そして勝てると思うヤツとしかケンカしない。そりゃあ、他人から見ると勝つと思えない相手とやることはある。弱い相手とばかりやってるっていうと、評判が悪くなるからね。自分より少しは強いけど、こっちがファイトを出せば勝てる、という見当はつく。その見当の中でケンカになる。僕は、戦後百二十回位ケンカしてるけど、なぐられたのは四回だけ、負けたことはない」。
そんな松山さんは当時、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』に詳細な注記を施す作業をしていた。インド哲学とどこで繋がるのか、判然とはしなかったが、いつかそんな注釈入りの『黒死館殺人事件』を編集してみたいと思ったことを覚えている。
それから十年ほどして、ある結婚披露パーティで松山さんと再会した。一人ぼっちで所在なさそうにしていた。宴がはねて、タクシーを拾ったところ、会場から松山さんが不機嫌そうな顔でふらふらと出てきた。結構酔ってるようだ。危険な雰囲気がただよっている。すると同行していた妻が言った。あのおじいちゃん可哀想だから、いっしょに乗せてあげよう。確かになかなかタクシーの通らない道で、こちらが拾えたのは幸運だった。同乗するのはいいけれど、あのおじいちゃんは可哀想な人っていうタマではないのだ。知らないということは強い。
結局、渋谷駅まで同行したのだけれど、松山さんと別れたあと、また妻が言う。優しいおじいちゃんだったね。
そんな怖くて優しい松山さんは2014年に逝去された。まだいまほどスマートフォンが普及する前のことである。もしも存命だったら、駅のホームや狭い路上でスマホ歩きをしている連中は、軒並み殴り倒されていたに違いない。
米澤 敬(よねざわたかし)
群馬県前橋市出身。小学校ではは新聞委員をつとめ、中学校では卓球部、高校では生物部に所属した。以後、地質調査員、土木作業員、デザイナーを経て、現職は編集者。
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