空っぽの月
10|ポケットの中味
20代前半は、稲垣足穂のショートショート集『一千一秒物語』を何度も何度も読み返していた。その中に、頻繁に引用される次の作品がある。
「ある夕方 お月様がポケットの中へ自分を入れて歩いていた 坂道で靴のひもがとけた 結ぼうとしてうつ向くと ポケットからお月様がころがり出て 俄雨にぬれたアスファルトの上をころころころころとどこまでもころがって行った お月様は追っかけたが お月様は加速度でころんでゆくので お月様とお月様の間隔が次第に遠くなった こうしてお月様はズーと下方の青い靄の中へ自分を見失ってしまった」
Masters of Reality "The Moon in Your Pocket"
マスターズ・オブ・リアリティというバンド名も「Sunrise on the Sufferbus」というアルバムタイトルも、それだけでは、このCDを買うことはなかったはずだ。ジャケットの絵がタルホの『一千一秒物語』の世界を好んで描いた漫画家、鴨沢祐仁の作品に登場する自転車に乗ったウサギそのままだったので、思わず手にとった。
鴨沢祐仁のウサギ
収録曲を確認してみると"The Moon in Your Pocket"が目にとまった。「これはタルホだ!」と即決、入手した。フォーク系のほのぼのとしたサウンドを予期していたところ、クリームやジミ・ヘンを思わせるハードロック・バンドだった。一聴してから確認すると、ドラムは元クリームのジンジャー・ベイカーである。若い友人に聴かせると、ドラムは打ち込みかと思ったとの感想。それほど複雑かつ正確なドラミングながら、短気ですぐに暴力を振るうというベイカーは、案の定このアルバムのみでバンドを去ったようだ。"The Moon in Your Pocket"は、彼らとしてはハードなロック色を押さえた仕上がりになっている。それでもドラムはちょっと暴力的だ。
Harry Nilsson "The Moonbeam Song"
ハリー・ニルソンは、多くのミュージシャンたちに高く評価されていたシンガー・ソングライター。「七色の声を持つ」とも称され、『真夜中のカーボーイ』などの映画音楽をはじめヒット曲も多い。ただ残念なことに重度のアルコール中毒で、1980年代以降は目立った活動もなく、90年代に糖尿病で没した。この"The Moonbeam Song"が収められたアルバム「Nilsson Schmilsson」にはバッドフィンガーのカバー"Without You"も収録されており、こちらはオリジナルより数段上の出来で、彼の七色の声とアレンジャーとしてのセンスが存分に生かされている。
Otis Spann "Moon Blues"
月のプレイリストには、ぜひとも12小節のブルースを一曲入れておきたかった。探しあぐねた末に、ようやく出会ったのがこのオーティス・スパンの "Moon Blues"。そのまんまのタイトルである。スパンは、シカゴ・ブルース界を代表するピアニスト。マディー・ウォーターズのバンドにも在籍した。最初にこの曲を聴いた時には、間奏はピアノ・ソロかギターとピアノの掛け合いになるのだろうなと漠然と期待していた。期待は裏切られ、いきなりトム・スコットのフルートが登場する。そんなところが月らしいといえば、月らしい。
Leo Sayer "Moonlighting"
レオ・セイヤーは、現在もオーストラリアで活動する現役のミュージシャンだが、70年代から80年代にかけては英国を中心にヒットチャートを賑わせていた。当時は、「星の王子さま」やピエロのようなイメージでプロモーションを行っていたという記憶がある。個人的には、この人の音楽を聴くと、ちょっとした恐怖体験が蘇ってくる。
大学生になって間もなく、当方の音楽の趣味を知ったあるサークルの先輩から、「聴かせたいレコードがあるから、部屋に来ない?」と誘われた。しいて断る理由もないので、ある昼下がりにアパートの部屋を訪ねた。ドアを開けるとパンを焼く香ばしい匂い。「キミが来るから、粉を練るところから準備して、自分で焼いた」のだという。初めて味わうお手製のパンとサラダと、これまた香ばしいドリップ・コーヒーを振舞われ、先輩お薦めのレオ・セイヤーのアルバムを何枚か聴いた。「そろそろお酒にしようか。アイルランドの美味しいウイスキーがある」とのこと。さすがにこのあたりで不穏な空気を感じた。酒を断り、コヒーをお代わりしたものの、気まずいことこの上ない。ほかの初めても味わうことになるのだろうか、などとと余計なことまで考えてしまう。なんとか外が明るいうちに先輩の部屋を辞去することができた。ドアを閉めた途端、安堵のあまり大きなため息。最後の方は少々身の危険を感じた。先輩の身長はこちらより高く、筋肉質で力も強そうなのである。本当のところは、「彼」がどんなつもりで後輩を部屋に招いたのかはわからないが、とにかく怖かった。そう、「Moonlighting」には、「夜襲」の意味もあるのだ。
草野道彦(くさのみちひこ)
雑想家、図像コレクター。奥州雫石に生まれ、信州伊那で育つ。図像学は荒俣宏に師事。某アマチュア・ロックバンドでエレクトリック・ベースを担当。
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