空っぽの月
19|からだの月に
蟹や珊瑚はもちろん、人間もまた月のリズムや引力の影響を少なからず受けているようだ。出血や出産と月齢との関係について語られることは多いし、月齢と殺人事件の発生件数との相関についての、少々物騒な研究もある。だからというわけでもないが、ある時期まで、「脳」や「肺」や「腕」などの漢字も月に関係があると思い込んでいた。もちろん勘違いであり、臓器などの月は「肉」に由来することを知ったときは、ちょっとがっかりした。「月」の部首はまた「舟」の省略形でもあるのだが、こちらはまずまず似つかわしい。「朝」や「服」の月は、フネヅキの月であるそうだ。
肉や舟が省略されて月になる一方で、月はときに「日」に簡略化される。「間」は本来は「閒」であり、閉じた門から欠けた月の光が漏れるさまを表していた。
Annie Lennox "Fingernail Moon"
身体の中の「肉」ではない月は、半月板くらいかもしれない。膝の軟骨であり、「半月板損傷」の表現で、けっこう頻繁にスポーツ・ニュースの見出しを飾る。このアニー・レノックスの"Fingernail Moon"を聴いて、もうひとつの身体の月を想い出した。爪半月(そうはんげつ)である。ハーフムーンともルヌーラ(lunula)とも呼ばれる。その人の健康状態を反映するというのは俗説で、指先をよく使う人に大きく現れやすいという。
アニー・レノックスは、ユーリズミックスの元ヴォーカル。そのヒット曲 "There must be an Angel"でご存知の方も多いだろう。この"Fingernail Moon"は、歌詞を読んだ限りでは、爪半月のことか、昼の空にかかる爪のように白い月を指しているのかは、判断に迷うところだ。
The Dukes Of Stratosphear "Bike Ride To The Moon"
XTCは、ザ・ビートルズやザ・ビーチ・ボーイズあたりのいわゆるサイケデリック・ロックに影響を受け、1977年にデヴューした英国のポップ・グループ。なぜかザ・デュークス・オブ・ストラトスフィアという変名でもアルバムを出している。XTC名義のときとさほど曲調が変わっているわけではないところが、やや不可解である。60年代の先輩バンドへのよりストレートで自由なオマージュとなっているところが、XTCとの違いと言えなくもない。この"Bike Ride To The Moon" の元ネタは、初期のピンク・フロイド。
Shane MacGowan and the Popes "The Rising of the Moon"
このプレイリストに入れたかったものの、タイトルに月がないので、やむなく断念したのが "炭坑節"である。一度聴いたら、あるいは一度踊ったら、「月が出た出た」の歌詞と旋律が耳について離れないのは、名曲の証だと思う。そこでアイルランドの「月が出た出た」を加えることにした。シェイン・マガウアンは、アイリッシュ・パンク・バンド、ザ・ポーグスのリーダー。生まれは英国である。バンド名が紛らわしいが、ザ・ポープスはザ・ポーグス解散後に彼が結成したバンド。ザ・ポーグスもパンクというよりトラッドの風味を感じさせるバンドだったが、この"The Rising of the Moon" は、アイリッシュ・トラッドの老舗バンド、ザ・ダブリナーズの演奏でも知られる、アイルランド民謡の定番。ノリはやっぱり「月が出た出た」である……と思う。
Emerson Lake & Palmer "Black Moon"
エマーソン・レイク・アンド・パーマー(ELP)は、ムソルグスキーの名曲をカバーしたライヴ・アルバム「Picture at an Exhibition(邦題:展覧会の絵)」のキース・エマーソンのパフォーマンスが印象的ではあるものの、個人的にはベーシストのグレック・レイクが曲づくり、サウンドづくりに果たした役割が大きいと思っている。とくにこの"Black Moon"は、イントロとアウトロ以外は、ほとんどグレック・レイクのベース・プレイを聴くための曲だ。
Black Moonの定義は曖昧だ。ひと月に新月が2回あること、ないしはその2回目の新月のこと、またはひと月に新月が一度もないこと、まれにひと月に満月が一度もないことも表す。おおむねBlue Moonの対語と言っていいかもしれない。
ちなみにひと月に満月が一度もない年は、19年に1回やってくる。次回は2037年、もちろん2月。
草野道彦(くさのみちひこ)
雑想家、図像コレクター。奥州雫石に生まれ、信州伊那で育つ。図像学は荒俣宏に師事。某アマチュア・ロックバンドでエレクトリック・ベースを担当。
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