空っぽの月


7|CとHの話


 
 

「ふたつもじ牛の角もじすぐなもじゆがみもじとぞ君は覚ゆる」。兼好法師が『徒然草』で紹介した延政門院(悦子内親王)の少女時代のものとされる歌である。ふたつもじは「こ」、牛の角もじは「い(ひ)」、すぐなもじは「し」、ゆがみもじは「く」のこと。つまりあなたのことを「こひしく思う」という意味だ。ここでの「あなた」は、恋人ではなく、父親の後嵯峨上皇のことである。牛の角が「い」であるなら、月にはどんな平仮名がふさわしいだろう。「つ」や「し」は、三日月を思わせないでもない。水墨で描かれた三日月ならば、「つ」や「し」に見立てることができる。

アルファベットならもっと直截だ。「O」は満月、「D」は半月、そして「C」ならば三日月となる。「C」はまた、見ようによっては、牛の角もじでもある。

Robert Smith "C Moon"

オリジナルはポール・マッカートニーである。ファン以外には、あまり知られていないけれど、かなりの傑作だ。三日月のアルファベットの「C」への見立ては、実はありそうでなかった。「C」は「see」や「she」にも通じている。この、ありそうでなかった、というのはポール・マッカートニーのつくる曲の一つの特性だ。ここで紹介するのは、ザ・キュアーのギタリスト、ロバート・スミスによるカバー。

友人のイラストレーターが、ABBAファンを公言していた。申し訳ないが、「ふうん、ABBAね」と、その音楽趣味をちょっと軽く見ていた。その彼女が突然、「ABBAはもういい。最近はザ・キュアーばかりを聴いている」などと言い始めた。そのバンドのことは知ってはいたものの、まともに聴いたことはなかった。慌ててアルバムを聴いてみると、灰汁が強くてなかなか馴染めそうもない。つまり彼女の趣味に遅れをとった上に、追いつけなかったのである。ABBAからザ・キュアーへの転身は、それまでいわさきちひろのカレンダーが貼られていた壁に、いきなりハンス・ベルメールが現れたようなものである。脈絡がない。まあ好みなどというものは、そんなものだろう。

そのロバート・スミスが“C Moon”をカバーしていることを知ったとき、きっと原曲は跡形もないくらい再構築されているのだろうと思った。聴いてみると、ややダークでヘヴィーなサウンドにはなっていたものの、木琴音を踏襲するなど、原曲のアレンジはかなり忠実に生かされていた。

The Boswell Sisters "Makin’ faces at the man in the moon"

ボズウェル・シスターズは、ボズウェル三姉妹による、いわゆる女性コーラスグループの先駆けとされる存在。キャンディーズの遠い祖先でもある。月に想い人の顔を見るというこの曲の録音は1932年。おそらく「空っぽの月」では、いちばん古い録音になる。当初、「バナナ・ムーン」というフレーズが耳に残り、バナナのような月という表現は意外に古くからあるのだなと思った。あらためて確かめてみると、なんのことはない、「at the man in the moon」の聞き損ないだった。

ポール・マッカートニーが好きそうな、かなり能天気で陰りも憂いも感じさせない歌声ではあるが、当時は大恐慌時代であり、そんな世相と対比するとまた別の味わいがある。ボズウェル・シスターズはジャズの盛んなニューオーリンズ出身で、黒人音楽と白人音楽の接点で生まれた音楽の一つでもある。現代の耳にはシンプルでありきたりな恋歌であるようでいて、彼女たちの音楽は、その後のポップ・ミュージックの方向性を決定づけたと言えるだろう。

Arthur H "La lune"

フランスのソングライター、アーサーHには、CDショップの試聴コナーで出会い、すぐに入手した。こういう声には、一も二もなく憧れる。自分も強い酒で喉を焼くか、潮風に向かって大声を張り上げて喉を潰してみようかとも思ったが、残念ながら酒に弱く、近所に海もないので、やむなく断念した。

自動人形師のムットーニが、この曲をBGMにして骸骨が踊る作品をつくった。絶妙な選曲だと思う。それ以降、この曲を聴くと頭の中で髑髏が笑うようになった。最初に作品を見たときに、ムットーニ本人に、「これはアーサー・エッチだね」などと知ったようなことを口走ってしまった。彼は失笑しつつ、「あのね、フランス語ではHはアッシュ と発音するのだよ」と諭してくれた。赤面したと思う。いつくになっても人間は新しいことを知り、成長できるものだ。ちなみにアーサーもアルチュールと表記すべきなのだが、日本ではアーサーでも通用している。アルチュールは本名であり、親(父親もミュージシャン)がランボーを意識してつけた名前なのかもしれない。

 

草野道彦(くさのみちひこ)

雑想家、図像コレクター。奥州雫石に生まれ、信州伊那で育つ。図像学は荒俣宏に師事。某アマチュア・ロックバンドでエレクトリック・ベースを担当。