旬画詩抄|佃 一輝
3|王羲之の鵞鳥
性愛鵝,會稽有孤居姥養一鵝,善鳴,求市未能得,遂攜親友命駕就觀。姥聞羲之將至,烹以待之,羲之嘆惜彌日。(『晉書』王羲之傳)
高校時代を思い出すような漢文。眠い授業を思い出しながら声を出してみる。人も知る「書聖」王羲之の伝記の中の一文だ。「(王羲之は)性、鵝を愛す。會稽に孤居せる姥有り。一鵝を養ふ。善く鳴く。市(買)はんことを求むれど未だ能く得ず。」今どきの高校生もおそらくこんな風に読み下すはずだ。ともかくも『晉書』という正史に、王羲之は鵞鳥が大好きな人として登場する。生没年は307〜365年という説が有力だそうだ。鵞鳥が好きだと言っても、フォアグラにして食べようというわけではない。池に飼って、グース、グース(?)と叫ぶ、その鳴き声が堪らないというわけだ。マザーならでファザーグース王羲之物語。
王羲之、友人と連れ立って任地會稽の独居老人が飼っている鵞鳥を見に行く。よく鳴く鵞鳥だというから買い取ってペットにしようという腹積もり。この婆さん、王羲之さまがいらっしゃると聞いて、しっかり気を利かせ、腕を振るって鵞鳥を料理! というのがこの文章だ。公けの歴史書ながら、オチまでちゃんと付いていて笑わせてくれる。『晉書』はさらに続けて、もうひとつの鵞鳥話を伝える。
又山陰有一道士,養好鵝,羲之往觀焉,意甚悦,固求市之。道士雲:“為寫《道德經》,當舉羣相贈耳。”羲之欣然寫畢,籠鵝而歸,甚以為樂。其任率如此。
同じ會稽の山陰に道教の寺(道観)があって、いい鵞鳥を飼っていた。売ってもらおうと交渉すると、道士がいう。「『老子』の全文を書いてもらえるなら群れごと差し上げます」と。王羲之筆の『老子』なら、鵞鳥のひと群れどころか寺ごとでもいいくらいだ。在世中の評価も、すでにしてそれほどなのだ。なかなか道士も世事にたけているというべきか。そう言われて王羲之、喜んで『老子』全文すべてを書き上げる。鵞鳥は群れごと籠にいれて持ち帰ったとあるが、大きな籠に何羽も詰め込んで、さぞや騒がしかったろう。それがまた嬉しくてしかたがなかったというから、これはもう鵞鳥フェチだ。この文章「その任率かくのごとし」と締めくくっている。「任率」はニンシュツと読んで、うまれつきの性格とかふるまいとかのこと。子供の時から鵞鳥のためなら何でもしてのけたわけだ。ちなみにこの王羲之筆の『老子』は、残念ながら現存しない。帖に刻されて残存したものもなく、もちろん臨書も模本も痕跡はない。ササビーズにもクリスティーズにも出てこない。真筆のすべてをコレクションして、おのが陵墓に持っていったという唐の太宗皇帝の記録にもないから、王羲之の後三百年、すでに残ってはいなかったのだろう。
さてこの色紙は昭和十年(1935)に描かれたもの。弘前に生まれ大阪の住吉に住んでいた高橋竹年の作品だ。いわゆる「大阪画壇」の人。とはいえ今では知る人も稀な忘れられた画家のひとりだ。この絵、鵞鳥には胡粉が塗られて白さが際立ち、ヴァルールと動きに整合性があって、一見主役は鵞鳥のようだ。鵞鳥の目線の先には人物の持つ棒がある。この棒、鵞鳥をあやすためのものだろうか。ともかく鵞鳥の目線と棒が、目には見えない対角線を作っていて、その後ろに人物がいるものだから、どうにも人物はかすみがちだ。
人物は誰かと言えば、もちろん鵞鳥がいるから王羲之と知れる。だがどう見ても生き生きとした鵞鳥に比べて、王羲之の方は何やら偏狭で狷介、どうもとっつきが悪そうだ。しどけなく衣がはだけているのも、ふつうに考える王羲之のイメージとは違う。王羲之は当時の最高貴族の家柄。家格からいえば公爵家のような名家の当主だ。しかも今日まで神格化された最高の書の名手。だらしなくはだけた衣とうつろな眼差しのこの王羲之像は、どうにも不可思議に思える。画家竹年は、王羲之の何を捉えたのだろう。
考えてみると王羲之の生きた時代は、危うい世の中だ。晉という国家そのものが洛陽を捨てて、今の南京に流れ着いた。失いし黄河流域の回復を目指す軍事闘争がある一方で、洛陽から落ち延びた王羲之ら北方貴族と、江南土着の豪族士族との軋轢がある。そして朝廷内部の権力闘争。名門ゆえのしがらみの中で、そうした社会から自らドロップアウトしたのが王羲之だったのだ。出世を拒み會稽の地方官を最後に隠棲を決め込む。官僚生活の終わりごろに、任地の會稽の山陰に構えた別邸「蘭亭」で開いたのが、かの「蘭亭叙」で知られる蘭亭の文会だ。「羣賢ことごとく至り」とあるけれど、対立する人々も混じっていたに違いない。危うい風流。そういえばこの時彼自身が詠んだ四言詩は
代謝鱗次 忽焉以周
代謝は鱗につらなり 忽焉として以ってめぐる
から始まる。新陳代謝するように季節も人も、たちまち変わりめぐる、と詠いだすのだ。転変ただならぬ危うい時代に、自分も代謝していくのだという含意なのか。危うい時代の危うい政治の人が、危うく隠れる宣言。あとはただ鵞鳥の鳴き声を聞いて過ごそうと。うつろな目とはだけた衣の肖像画は、「書聖」のそれではなく、鵞鳥に慰められながら隠逸を生る王羲之のありのままにも思えてくるのだ。
そう鑑賞してみると、作者竹年の王羲之イメージは、作者自身の心情を多かれ少なかれ映しているに違いない。今からみればこれが描かれた昭和十年もまた危うい時代だ。昭和二年には王羲之の故地山東省に日本軍が入り、満洲事変、上海事変、満洲国と、大きな動きの只中にいる。大阪に住む竹年に戦争の影が直接響いているわけでもあるまいが、不安との距離感は王羲之と同じようなものだろう。竹年の慄きが王羲之の慄きと重なって、鵞鳥ばかりが生き生きとした、こんな王羲之像を描くことになったのか。
ちょっとふるっているのは竹年の署名落款の字だ。王羲之流の流麗な行草書でなく、いかにも近代的な碑学流のゴツゴツ文字が闊達に画面を引き立たせている。王羲之を描いて反王羲之を書す。これもまたなかなかどうして見事なものだ。王羲之流の端麗な行草書があまりに定番になってだれもがそれらしく真似るようになると、当然反発も起こってくる。王羲之流は美しさの基準となって、個々人の個性や感情に乏しくなって、役所の公用書体のようになってしまった。反発の代表が唐の顔真卿だ。この人もまた危うい世渡りの人だ。その危うい顔法と王羲之流が綯い交ぜになって、延々と書法の歴史が重なっていく。竹年がもし王羲之流で署名したなら、鵞鳥好きの王羲之の情は見えてこないだろう。ほぼ鵞鳥を主役にして、うつろな王羲之の情を表現したこの色紙絵。手慣れて闊達なカナ釘流の署名が絵とあいまって、実に効果的に危うき情を写し出している。
コロナが話題になり始めた2020年の二月。倪元璐、王鐸、傅山らの書幅を掛けて煎茶会を催す。王羲之の書法をもとに、有為転変定め無き明末清初の動乱の中で書を極めた人々だ。みな王羲之からは千三百年を隔てて書かれたものだ。それでいて王羲之と同じく、彼らは亡国の中にいた。それからさらに四百年を経てここにずらりと掛けてみると、書法は全く王羲之と異なるようでいて、しかも「王羲之をつぐ」と豪語する彼らの心情が否応なく迫ってくる。溢れる情。熱く、多く、濃く、そして重く。たしかに鵞鳥とでも戯れて、何もかも忘れたくなるというものだ。
日本の独居老人に鵞鳥を飼っている人は少なかろうから、アヒルを手に入れようと聞いてみたら、北京ダックが届いた。極上の玉露の一滴のあと、58度の白酒を皆であおって北京ダックの皮を頬張る。したたかに酔えども、王鐸や傅山の強烈な酔いは超えられない。王羲之の情の呪縛は、やはり永遠につづいている。
佃 一輝(つくだいっき)
一茶庵宗家。著書に『文人茶粋抄』『煎茶の旅〜文人の足跡を訪ねて』『おいしいお茶9つの秘伝』『茶と日本人』(2022年3月新刊)などがある。
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