旬画詩抄|佃 一輝

10|発意のしかけ


 

 船場派のひとり小野素文が、団扇に墨だけで描く舟。扁舟(へんしゅう)。小舟ながら帆を張るから、もちろん帆舟(はんしゅう)と呼んでもよい。ただこれを(ほぶね)と言うといささか違う。
 呼び名にこだわるのは、この殊更に何かを主題とするわけでもない作品の、基調となっている風土を思うからだ。
 こころみに「この絵に描かれている場所はどこ」と幾人かに聞いてみた。「琵琶湖」「ベトナムかタイ」「メコンデルタ」「アマゾン川」などなど。「中国」と答える人は驚くほどに少ない。この絵が描かれた頃、誰もが共有していたであろう風土観は、現代人にはもはや稀薄だ。
 作者が名付けた題名もなく、場所を特定する特別なものが描かれているわけでもなく、まして賛という文字情報があるわけでもないこの団扇。作者自身も、場所や時間や時代を特定しているわけではない。だが少なくとも日本ではなく中国であることは、見る人にはかつて自明のことだった。かつてとは、この絵が描かれた昭和十年代ではということだ。おそらく昭和五十年代ですら当たり前だったろう。国交の断絶していた頃にかかわらず、この絵は中国であった。という事は、現実に中国に行くことも、行ったこともなくても、やはり中国だと了解している。風土観とは、だから詩的風土というべきか。教養の範囲で想像する風土なのだ。この絵に東南アジアを思うのは、今の人の知識には川の生活は東南アジアにあるからだ。だから絵が想像させる風土観とは、多く教養によるといえよう。描き過ぎず語り過ぎずの船場派を支えていたのは、教養の風土なのだ。その教養と詩的風土によって、(ほぶね)という和語ではなく(はんしゅう、へんしゅう)なのだ。

 この団扇、今は剥がして表具されているけれど、もとは実際にあおいで使ったもの。冷房のない時代、煎茶会で出しておいた白い団扇に素文が即興で描いたものだ。当時はみな木印を持ち歩いていたから、当然に署名落款までして完成させている。団扇即興といえど完全なる作品だ。完全な作品なのに場も時も特定せず、見る人の想像に任せている。長江か洞庭湖か、はたまた西湖か太湖か。杭州か蘇州か揚州か南京か。ただ江南らしき風土だけを描いて何も言わず、何も主張しない。
 ちなみに素文は菊池芳文に学んだ純然たる日本画家、北宗の絵師だ。花鳥風月を華麗に描いて静かに情を秘める。しかしこの団扇絵はあたかも南宗のようなタッチで、しかも本来の南宗のような至情を込めない。団扇の骨を上手く使って、帆布など随所に縦の細かい線でリズムを打つ。即興ならではのしたたかな技だ。
 舟から岸までは中国にしては狭いという指摘もあろう。だが舟から手前、見ている我々まで水は続いて、川幅はすこぶる広い。岸の塔は古い仏教寺院のそれで、日本の五重塔と違って裳階(もこし)が急で短い。塔から右手に続く岸は、煙霞にけぶってどこまでも遠くに広がっていよう。やはり中国江南の遥けき景色だ。
 だが描写は淡々として、江南への愛情や憧れはあるけれど、何かの私情や屈折を表現しているわけではない。南宗画、文人画なら「写意」と言う。「意」は(こころ)。山水の本質と自らの何かしらの「情」との相剋が描かれる。だが北宗の素文は、南宗描法を借りながらも「意」は写さない。「意」がないからといって、今の新南画のパターン化した無内容とはもちろん違う。絵に「意」はなくとも、私たちに「意」を起こさせるような何か、風土観とか詩情とかがこの素文作品には漂っているのだ。

 長安赤日愁炎熱 

  長安の赤日 炎熱に愁ひ

 漫膚多汗霑軟塵

  漫膚多汗 軟塵にぬれる

 今日風光何太好 

  今日の風光 何んぞはなはだ好し

 不晴不雨偏宜人 

  晴れず雨降らず ひとえに人に宜し

(「夏日東城泛舟」清 王文治)


 炎熱の都市。真っ赤な太陽。汗だらけの皮膚に埃がまとわりつく。川に舟をうかべると、なんといいねえ!カンカン照りでも雨でもなく、人にはこれか一番!

 この団扇絵にこの詩を添えると、酷暑の中の私たちそのものだ。私たちは舟に乗っている。うかべた舟の横には、帆を揚げて荷を運ぶ舟。絵は横をいく舟だ。長安というから、所は北京か南京か。

 一身充兩役  

  一身 両役にあつ

 誰道呉娘癡   

  誰かいう 呉娘痴なりと

 襁兒背上臥   

  襁児は背上に臥し

 搖櫓竝搖兒   

  櫓を揺らし ならびに児を揺らす

(「舟行絶句」清 趙翼)


 ひとり二役の仕事。誰が言うのか呉の女性は
馬鹿だなぁと。子どもをおんぶして寝かせ、櫓を漕ぎながら子を揺らす。

 呉というから蘇州。そのクリーク地帯の舟の上で、生き生きと働きながらの子育て。この詩を読んでこの絵を見るなら、絵の向こうにもう一艘、子育てママの働く姿が見えてくる。そして現代の生活にオーバーラップするだろう。働く楽しさと子育ての楽しさ。そして両役の苦心と喜び!

 素文の絵には「情」も「意」も描かれない。しかし見る人は、それだけに自在に「意」をつける。江南の風土を与えられることで、いろいろな詩的世界を自由に妄想できるのだ。
 作者の「意」を受けるのではなく、見る人に「意」をおこさせる絵。「発意」の絵ともいえる作品なのだ。

 素文が「発意」の絵を描いたのにはわけがある。私ども一茶庵宗家で、しばしば催される「文会」と呼ぶ煎茶会で用いるために描かれたものだからだ。作者自身の「意」は抑えて、文会参加者の「意」を導く。そのための仕掛け。素文の他の団扇作品も、ことごとくこの「発意」の仕掛けによるものであることがお分かりいただけよう。かつて漢詩文に馴染んだ人たちへに、いろいろな詩的世界を彷彿とイメージさせる、煎茶文会サロンのための「発意」の絵画!

 さて同じく団扇に描かれた櫻井雲洞の作品を見ておこう。雲洞は南宗画の人。これはまさしく南画だ。芦辺にうかぶ舟。こちらは篷舟で漁師のものだろう。人はいない。が賛には

 幽翁聲自樂  

  幽翁声おのずから楽し

 流水意長閑  

  流水おもい長閑たり

とあって、老漁父の達観したような自適の境地が示めされている。
 だが、賛にいうほど画面は晴れやかではあるまい。素文に比べると、どこか暗く陰気に思えてくる。芦辺だけに秋の季節感が、余計にそう思わせているのかもしれない。皐月とあるから初夏五月に描いたもの。普通なら、もう少し爽やかな風と緑を感じさせてよいのではないか。爽やかならば、この賛は相応しいのだが、いかんせん画面に爽快さはない。
 賛自体はパターン的な南画の言い回し。絵は初秋の水辺の、これもパターン表現。ところがこれを組み合わせた時に、何ともちぐはぐな気分が起こる。飛ぶ鳥たちも幸せには見えまい。
 この団扇作品、もし賛が無ければ、確かに静かな芦辺の満ち足りた時間を感じるかもしれない。だが賛に、思い切り悠々たる人生観を示されると、やはり絵画面との齟齬は否めなまい。作者に秘めた「情」があるのだろうか。
 壬午と年が書かれている。壬午、昭和十七年。中国との戦争が続く時だ。重慶爆撃の悲惨な年。その不穏な空気が、あるいは作者の表現を斯様な形にさせているのだろうか。南宗画の南宗たる所以は「写意」。パターン表現となって「意」もパターンとなってしまったこの頃の南画に、時代の慄きが嫌が上にも反映されて、思わずも「写意」の本義を示して南宗画足り得た例とでも言えようか。
 とはいえこれは、見る人に与える違和感によって見る人の「意」を起こす。普通なら賛は作者の「意」であり「情」の文字表現なのだが、この作品の賛の「意」も「情」も、そのままには受け取れない。おそらく本意ではないな、と見る人に「意」を起こさせる。これも「発意」の絵と言えなくもあるまい。ならば本来の「写意」の南宗画は、そもそも「発意」の絵でもあるのだ。

 
 

佃 一輝(つくだいっき)

一茶庵宗家。著書に『文人茶粋抄』『煎茶の旅〜文人の足跡を訪ねて』『おいしいお茶9つの秘伝』『茶と日本人』(2022年3月新刊)などがある。


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