旬画詩抄|佃 一輝

9|何を釣る


 

 春立つ頃は寒さが身にしむ。水辺となれば、殊更に耐えがたい。氷の張った湖面に穴を開けてのワカサギ釣りは、楽しそうだが寒かろう。寒風吹きつけ、凍てつく川や海で釣りをするのは、何を釣っているのだろう。海ならばヒラメかブリか。ともかくも大きな魚を狙って、思いばかりは熱い。

 大正11年の夏、高橋米舟が描いた「寒江捕魚図」は、いかにも寒い。寒江というのだから川釣りなのだけれど、画面の表現は相当に広がりが感じられ、海にも見える。もちろん「江」というからには長江が原イメージだ。長江に限らずとも「江」と書けば、文学上は大きく広い。およそ日本人の描く[南画・文人画]の山水は、こじんまりとして大きな空間には見えないことが多いのだから、海にも見えそうなこの「寒江」は、ちょっと日本人離れしたところがあるかもしれない。米舟は弘前潘儒の子に生まれ、漂泊して大阪に流寓した人だと言う。そうした人生が画境に大きさを齎しているのか。粗放ながら十時梅厓や岡田米山人にも一脈通じる、と言えば言い過ぎか。

 舟には三人が乗っていて、実に楽しげで屈託がない。なんだか満ち足りている。「寒江」の寒さとは裏腹に、見る者は心温まる。絵に書かれた「寒江捕魚」の文字は、「寒い川で魚を捕る人たちの絵」という客観的な題名というよりも、「寒江で魚を捕る」という主観的な、能動的な言い方に思える。つまり画題ではなく賛なのだろう。魚を捕る行為を描く、という言いだ。たしかにこの絵、見る我々は、「舟の中に描かれたひとりは自分である」というような錯覚を起こさせる。自分が絵の中の登場人物になって、いわば絵の中に入り込んで、仲間と釣りをしているような気分にさせてくれるのだ。

 中唐の柳宗元に「江雪」という有名な詩がある。

 千山鳥飛絶

千山鳥飛ぶこと絶え

 萬逕人蹤滅

万逕人蹤滅す

 孤舟蓑笠翁

孤舟 蓑笠の翁

 獨釣寒江雪

ひとり釣る 寒江の雪

 あらゆる山々に鳥は飛ばず、
 すべての道に人の足跡すら無くなった。
 寒ざむとした川に、一艘の小舟。
 蓑笠をつけた爺さんが、
 ひとり釣糸を垂れている。

 コロナ前の年に湖南省永州に旅した。柳宗元の左遷されていた地、この詩の場所だ。江というから相当な大きさかと想像していたのだが、川は思いのほか広すぎはしない。それでいて漁翁が舟をうかべるには、まことに似つかわしく美しい。
 この詩、失意の柳宗元が孤独に釣りする漁師の姿を写して、寂寥感に充ちたものとされている。しかし果たしてそうなのだろうか。見事に山水画のように、俯瞰して切り取った景色。目線を下げれば寒江に一艘の小舟。ひとり蓑笠つけて釣りする翁。何を釣るのか、何が釣れるのか。いやそもそも何か釣れるのだろうか。
 あまりに絵画的なこの詩の主人公は、ほとんど釣れることを期待していないようにも読みとれる。いやもちろん、現実に柳宗元が見たであろう漁翁本人は、寒中にもめげず、必死に、生きるために釣る生活者だ。だがしかし柳宗元の詠いぶりといえば、諦めというか、もう達観して、釣れるあてなどなく、ただ無目的に、ただ釣糸を垂れるだけのために舟に乗っているようにも思える。柳宗元は蓑笠の翁を、釣れるあてもなく釣糸を垂れている爺さん、と見てとって、左遷の我が身にひきあてている。それが孤独と悲観を象徴すると受けとるのはもっともだけれど、むしろそれはそれで「まぁイイか!」と詠っているようにも思える。蓑笠の翁は、自分と同じように達観している、と明るく詠んでいるのではないか。
 それかあらぬか、この「江雪」の詩をもとにする詩や絵には「寒江釣雪」の名がつけらることがある。「雪に釣る」わけだが、「雪を釣る」と読んでも良かろう。魚は諦めて、雪を釣る。雪しか釣れないけれど、「まぁイイか!」
 すると米舟のこの絵、一人と三人のシチュエーションの違いはあっても、柳宗元の詩意は充分に反映しているのかも知れない。むしろ柳宗元の明るさを描き得たと言うべきか。
 いずれにせよ寒い山川は、自分を取り巻く世の姿。あてもなく釣る釣り人は、諦観から達観へと進んだ自分の人生。

 この温まる明るい「寒江捕魚図」に、賛を足して見たらどうだろう。


 空玄影外渺孤舟

空玄影外渺たる孤舟

 不与漁翁意思侔

漁翁に与せざるも意志はひとし

 萬頃風濤一天雪

万頃の風濤 一天の雪

 且看誰解下金鈎

しばらく看よ誰か解さん金鈎を下すを

 幻想にうかぶ柳宗元の詩の舟。
 漁翁ではないが、思いは同じ。
 見よ、この凍てつく国の寒江で、
 釣糸を垂れるような私の思いを、
 誰が理解すると言うのか。

 この詩、侵攻するモンゴル元王朝に国土を奪われ抵抗した宋の遺民、鄭思肖のものだ。
 三人が小舟に乗って幸せそうなこの絵に、あえてこの詩を「賛」として書き込んでみたならば、幸せな三人は、たちまちに虚ろに、不安な諦観と、投げやりな達観の姿に変わるだろう。そうして、秘められた抵抗の熱情が、かえって激しく伝わってくるかも知れない。
 そうすればほとんど、去年か今年に描かれた作品と言っても納得させられてしまいそうだ。今現在を現すならば、この絵にはこうした「賛」をもつけ得るのだ。実は日本画に収斂される以前の[南画・文人画]には、こうした裏技がある。
 いやしかし、せっかくの幸せな「寒江捕魚」に、わざわざ嫌な賛を考えることもあるまい。幸せな絵に戻そう。

 同じ大正期に、南出木州が描いた「捕魚」短冊も洒落たものだ。蓑笠つけた川漁師。こちらは川辺に芦が生えて雨が降りしきる。秋だ。ちょっと漫画チックで、釣竿を担げているから帰りかと思いきや、川面を見つめて釣る気まんまん。後ろ姿がリアルだ。翁ではなく中高年。川漁師の生活感をしっかりと捉えている。生活者の目線で、生活者の共感がある。大正という時代の持つ新しさ。

 いまひとつ幸せな「捕魚図」を。米舟の子、高橋竹年の描く川漁師。こちらは昭和初期で画冊の一頁だ。春か夏の川辺。漁師は壮年だろう。捕らえた魚を持っている。静かに漁師の心豊かな楽しさが伝わってくる。客観表現で穏やかに語る、日本画らしい表現だ。

 「捕魚図」三点。描法の違いは語り方の違いでもあり、語るべきは何かの違いでもある。さて寒江に何を釣ろうか。

 

佃 一輝(つくだいっき)

一茶庵宗家。著書に『文人茶粋抄』『煎茶の旅〜文人の足跡を訪ねて』『おいしいお茶9つの秘伝』『茶と日本人』(2022年3月新刊)などがある。