旬画詩抄|佃 一輝

11|時を冩す


 

 「冩す」は「寫す」とも書いて、絵画の署名落款で「描く」ことをあらわす。もちろん送り仮名の「す」は書かず「冩」の一字だけだ。「写」と書く人もいるにはいるが、収まりは「冩」だろう。何を「冩す」のかといえば、作者が見ている世界、心象(実)や心情(意)を「冩す」のだ。誰かの作品をコピーしたというのではない。オリジナルに描いたものが「冩」で、臨や模や摸、倣とか仿などと記すと度合いは別としてコピーのこととなる。
 「竹年冩於清風畫房」(竹年 清風畫房に於いて冩す)と署名があるなら、竹年が清風画房というアトリエでオリジナルに描いたということだ。
 「時を冩す」などと書くことはまずない。「◯◯の時に冩す」ならもちろんある。ことさら「◯の時に」と言わずとも、これは◯◯の時だと自明のものもある。例えば十二支の絵。その年の年始に違いない。ここにあげたのは梅村香堂が描く「雲龍図」。墨彩に金泥を附して、辰年の正月にいささかパターン的な吉祥画だ。作品というよりも新年の挨拶用の色紙で、これで批評されては作者も困惑するかも知れない。だがしかし、どうにも優しいラッキードラゴン!辰年正月という「時に冩」した絵なのだが、たおやかな時代の辰年という「時を冩」している。おそらく昭和39年。あたかも同じ甲辰、六十年前の正月の挨拶に置いていかれたものだ。この年の秋には東京オリンピック。


 いまひとつは高橋竹年(1887〜1967)が大阪住吉に住していた頃に冩した「龍図」。昭和3年か15年の辰年のものに違いない。その頃のわが一茶庵宗家は墨客の溜まり場といった雰囲気で、正月ごろには干支の絵や勅題に因む作品がいくつも届けられていたという。大晦日や正月二日はご本人たちが作品を持ち寄って、煎茶を名目にゆるゆると酔いに浸るのが定番の風景。竹年の父君、米舟先生のこの日の「醉筆戯墨」は有名だったようだ。
 竹年は四条派に学んで四条派の作家に違いないが、それでも多分に大阪画壇の空気を吸って「船場派」に類する仕事をしている。画面には空白が多い。ほとんど龍の顔しかなく、僅かに体の鱗とおぼしき墨彩部分。他は白のまま。それでも体のうねりと分厚い白雲は感じとれるだろう。だが動きとか力動感はいかにも乏しい。なんとも動かない龍だ。生動せず、雲間にじっとしている。動かぬ龍。虚空を呆然と見つめている。わざわざこんな龍をなぜ冩すのだろう。何か含むところがあるのだろうかと疑いたくもなる。
 疑いを持つのは、一茶庵に残されたいろいろな人々の作品には、彼らの展覧会作品や売り絵とは別種のものが多いからだ。竹年のこの龍も、正月吉祥の彼の売り絵の龍と比べれば瞭然なのだが、天翔る勢いはまるでない。この龍では決して売れまい。売る気のない龍をわざわざ冩して描き置いたのだ。吉祥でなく、彼の心象に見えた飛翔せぬ龍。竹年の心情にこの年何が去来したのか。竹年のその「時」を、実は正直に「冩」しているのかも知れない。

 昭和8年の正月に龍邱という人が一茶庵に残した「竹陰草廬圖」となると「時を冩す」こと甚だしい。龍邱はいずれの人か今詳らかではない。あるいは下平龍邱か、あるいは別人か。ともかく煎茶会(文會)の席上揮毫など龍邱落款の作品が幾つが残るのだが、中でもこの作品は見事なものだ。一見、民国初期に当家に集まった中国人の誰かかと思える清朝風の描きぶりだ。三遠法も周到で、見上げる濡れた竹の風に靡くさま、靄の動き、山から流れくだる川の広がり、陰陽の気韻がそれぞれに方向を持って動いている。
 実は昨秋北京大学で、東大と北京大の哲学系の教授ばかりと煎茶文會をさせていただいた際、渠敬東、朱良志のお二人が強調してやまなかったのが陰陽の気韻が気脈として動いていているかどうかの評価だった。日本南画の思いもよらぬ思想性。あらためてその伝でこの絵を見ると、なるほど気脈は整い、穏やかながらにしっかりと描ききってある。画面上方はあくまでも空(そら)。そう、いわゆる余白ではない。空間として充実した空白。描かずに描かれた空。山水画として的確に空間把握され表現されている。敢えて日本人離れしたと言いたくなるような、南画ではなく南宗画山水の小型版なのだ。
 残念ながら自賛の書法は特徴もない。詩もまた月並み、いかにも拙い。だが問題はその心境にある。

 緑竹千竿一草廬  

緑竹千竿(かん) 一草廬(ろ)

 西風嫋嫋雨晴餘  

西風嫋嫋(じょうじょう) 雨晴の餘り

 秋深燈火可親處

秋深くして燈火親しむべきところ

 戞玉聲中獨讀書

戞玉(かつぎょく)聲中 ひとり書を読む

 竹林に囲まれた庵。秋風がやさしく吹く雨上がり。秋は深まり、燈火に親しむべきところ。雨の雫が屋根に落ちる。その玉の鳴るような音を聞きながら、ひとり本を読む。
 続けて署名には「時に癸酉の陬月」とある。
 陬月(すうげつ)とはまがいもなく一月。正月に、注文を受けたわけでもなく秋を描くのはどうしたことだろう。美しく濡れた竹林の書斎。しかもおそらくは山居。竹の葉から吹き飛ぶ雫の、あたかも白玉の触れ合い鳴るような透明な響きの中で、ひとり読書する世界。世俗の鬱屈を拒絶するような、ほとんど引きこもりの美しくも閉じた世界。沈潜。
 しかし偏屈で片意地な、狷介固陋の印象はあるまい。雨に濡れた竹林の美しき画面と、「燈火親しむ」という韓愈以来いい古された慣用句を使うことで、籠って本を読んでいる人はごく普通の人であることを示していよう。引きこもりながら、いつでも世俗に帰ることの出来る人。しかし今この「時」に、世俗を拒否し籠ってしまう人。その「時」は癸酉。昭和8年。1933年。その正月。
 二年前には満洲事変、前年には上海事変、満洲国成立があり、今日いう日中戦争が広がっていく「時」なのだ。その「時」にあたって正月からの「読書の秋」の絵。慄くように山居書斎に閉じこもって「燈火親し」もうとするのだ。龍邱氏にとって日中の現実を見ることは、痛切に傷みを感じるものではなかったのか。龍邱氏に限らず、漢詩文により中国への憧れや思いを抱いて育った教養人、画家、煎茶家たちが、中国との戦いという現実に直面しての思いや戸惑いは、あるものは塞ぎ、あるものは憧れ高じて高位に立つことに浮かれ昂る。この作品は文人画らしく情の動きを秘めると共に、日中の戦争の時代という「時を冩」した絵なのだ。


 杉野僲山の描く「蟹図」は「壬申の春日、浪華に於いて冩し幷せて題す」とある。先程の龍邱作品の前年、昭和7年、1932年の春。
 蟹といってもズワイではない。川の蟹だがさりとて沢蟹でもない。上海蟹を思えば良い。その「蟹」が寓意するものといえば、吉祥ならば甲羅の「甲」。甲は木の芽が顔をのぞかせる状態をいう漢字で、始まりを意味している。漢字のもつ抽象概念を図像化するのは中国人の得意技。概念を実体に移行させるアレゴリーの表現は、漢字の同音によるものが多いけれど、これは甲羅があるからという即物的な発想だ。蟹の甲羅=甲は科挙時代ならトップ合格、「甲」に名をつらね立身出世を示すおめでたものだ。「菊に蟹」なら長寿の始まりの言祝ぎだ。
 もっとも「蟹」の寓意の真骨頂は文人たちのそれで、いわく「横行君子」いわく「無腸公子」。横歩きしかしないので、勝手気儘に我が道を行くという自尊の意思。また腸がなく脳みそばかりなので知識人だと標榜する、これも自尊。
 一方で蟹は捕えられ、縄で縛られ出荷されて、はては美味しく食べられてしまう。すると左遷されたり罪に陥れられたりと、褒貶極まりない自らの官僚人生に合わせて、自虐的に自分を蟹に喩えたりすることになる。美味しい、つまり才能があるゆえに妬まれ捕まっり縛られて、と自尊ゆえの自虐を「蟹」で表象するわけだ。すこぶる切実な喩えと言える。
 さてではこの絵は何を寓意するのか。賛には六朝の大学者、陶弘景の『本草拾遺』をひく。

 陶隠居云 蟹未被霜者甚有毒 人若中之 
 不即療即失 以食其水茛也 至八月腸内有 
 稲芒食之無毒
 陶隠居云う 蟹の未だ霜を被らぬものは甚だ毒あり
 人もしこれにあたらば 
 すなはち療せずして すなはち失う
 その水茛を食すゆえなり
 八月にいたらば腸内に稲芒あり 
 これを食して毒無し

 上海蟹は10月、11月が旬だが、秋までは毒があるという。蟹の毒はフグと同じで恐いものだそうだ。それが秋になれば大丈夫になる。
もともと毒があるけれど、時節になれば美味だという賛は、例えば黄庭堅の

 草泥出没尚横戈

草泥に出没してなお横戈す・・・

 奈此尊前風味何

如何ともするなし この尊前の風味を


などという詩に通じるのだろう。横歩きしながら戈(ほこ)を振りかざす悪者。しかしこれほど美味しいものはいない。
 嫌われて戦闘的とか毒が有るとか非難されるが、本当はこれほど才能のある人はいないのだと、自らを蟹に見立てた強烈な自負である。
 しかし、ならば二匹というのはいかがなものだろうか。自虐の自負なら一匹であろう。この横行の二匹は仲が良いのか、それとも近づいて戈を交えはじめるのだろうか。
 もし昭和7年という「時を冩」したと考えるなら…。一月に上海事変が起こっている。ならば八月腸内毒が無くなると言うのは、作者僲山のひたすらの願いのようにも思えるのだ。
 例えばピカソの「ゲルニカ」のように、まさに「時を冩す」ものとして制作する意図など無かったであろう。しかし定番の画題のうちに、図らずも「時が冩」ってしまうことはむしろ当たり前ではないのか。
 だが、私はおそらくは読みを逞しくしすぎているのであろう。龍邱がごとき文人画ならばまだしも、四条派の流れをくむ僲山や竹年の日本画に、そもそも感情を読み取ろうとするのは無理があろう。だがそれでも…と思いたくなるのが一茶庵宗家に残された、売り絵でない作品たちなのだ。そう思わせる理由は明白だ。この一茶庵宗家の場は、煎茶を飲みながら絵のうちに秘めた情を語る「絵解き」の場、「文會」と呼ばれる集まりだったからだ。売り絵の分かりやすさとは違う表現が求められていたからだ。すると、むしろ素直に「時を冩」してしまって、思わずも心情が見えてしまったのではなかったか。
 日本画のみならず当時流行の南画というもの、南宗画や文人画のスタイルを気取った売り絵にもちろん感情表現はない。しかしもともとの文人画や南宗画には、情の揺れが必ず密かに溢れている。龍邱氏もまた、率直に「時を冩」して、文人画山水に思いを託してしまっている。

 さてやはりもう一度、竹年の動かぬ龍を見ようか。飛ばない龍は竹年本人の個人的な何かなのか。あるいは昭和3年か15年かという「時を冩」し反映しているがためなのか。甲のつく辰の年。「時を冩」して龍は翔び始めるのだろうか。

 
 

佃 一輝(つくだいっき)

一茶庵宗家。著書に『文人茶粋抄』『煎茶の旅〜文人の足跡を訪ねて』『おいしいお茶9つの秘伝』『茶と日本人』(2022年3月新刊)などがある。