泥遊び 筆遊び|加藤静允


10|白磁のこと


 

加藤静允 作

 青春、朱夏、白秋、玄冬。

 秋は白ですね。

 一年の中央、太陽が最も高く上る日、夏至が黄色なのでしょう。寺院の幔幕の色の順番が緑(青)・黄・赤・白・玄(紫)の順になっているのは誤りや、赤・黄・白と春夏と秋冬の中央に黄を持って来るべきや、と五行説で談じたところ、有職に深い造詣のある池修先生は静かにニッコリ笑って「有職ではこの順に決められているのです」と泰然としておられます。こっちはいいかげんな人間「ウン、マア、緑・黄・赤・白・黒を紫として、キレイヤそれでマアエエカ」と凹んでいます。でも黄が中央であるとの考えは変わっていません。見た目でなく思考上のことだけですけど。

 秋といえば白、白といえば白磁。もう3、40年も昔のことになるのですが、そう昭和50年代の頃のことです。京都新門前のYKさんの新しいお店のウインドーに白磁の中皿5枚が並んでいました。一見、遠目にも魅力的なものと知れます。近寄ってよくよく見ると……、径六寸余・白磁縁つきの平皿、高台大きくしっかり、5枚が5枚ともすべて異なる雰囲気を持っているのです。1枚は特に強く歪んで。めったに無いことですが「心底、欲しいなあ」と思いました。10年後だったら黙ってスッと買っていたでしょうけれど。

 4、5日して、またお店の前を通った時にはまだあったのですが、次に通った時には無くなっていました。「あれは好きな人多いわなあ。ほんでも、えゝ白磁やった」と夢の図譜の中に蔵っていたのです。

 それから半年ほどして、大阪北のカハラさんへ行ったところ、最初の料理を載せて出て来たのがあの白磁だったのです。

 「アレ!! これここに来てるんですか!」と思わずマナーも忘れて大声で叫び「スミマセン、ツイ不調法を」と赤くなって頭を下げました。まだ少年の面影を残す大きな眼の森義文さんはうれしそうに少し恥かしそうに、にこやかな笑顔で堪忍して下さったようでした。

 「ボクも欲しかったなあこの白磁、でもまた会えて……」といつまでも見入る私に、森さんは「ゲップトユウ手モアリマスシネ」と満面の笑顔で話を移して行ったのです。

 その後数回、最も気になる一枚を拝借して帰り、泥遊びを楽しませてもらったのです。いつものことですが頭の中には本歌よりウンといいものがちゃんと出来ているのですが……、窯から出て来たものは「ウーン、アカン、コンナショボントシタモンシカデケンカ!」をくり返しました。森さんはいつもあまり褒めてもくれず、くさしもせず、差し上げた数点は時には使って下さっていたようにて、少し安心というところでした。

 あれから30年余、私は老耄極まってカハラさんの料理をもう一度とは全く望みませんが、あの皿はもう一度見たいなあ、手に取りたいなあとは思いますね。

 白磁の皿と言えばもう一点、中川竹治さんが、なんどか私に作らそうと、両三度持って来て下さった縁つき白磁の少し大きめの平皿があります。あまりにもキレイ・キッパでとても修学院のワルガキには遊びごころを起こさせるものではありませんでした。

 私の愛蔵・秘蔵の陶片中の白磁2点、一つは昭和50年代初め、道馬里古窯跡出土の早期李朝の碗です。春うららの好日、北に遠く光る漢江(ハンガン)と分院里の集落を望む岡の上の古窯跡に立つことができました。山なす無数の陶片の中に、何百、何千に一つ白玉かと思われる陶片を見つけることが出来ます。その時の白磁くり返し、くり返し見ても飽きることがないのです。長い間これこそ白磁第一と思ってきました。しかし、30年後に景徳鎮の黄泥頭窯跡出土の五代の白磁陶片を得たのです。この白磁は早期李朝・道馬里のものとは明らかに立位置の異なるみごとな白磁なのです。古来言う姸と質とのちがいでしょうか。上には上があるものと知りました。

 ほんであんさんのつくらはったもんはどんな白磁ですねん、と言われたらもう何もお見せするものはありません。

 只只、泥遊びの結果出来たものが、使ってもらうことが出来れば無上の幸せです、と申し上げるより他はありません。

 

加藤静允(かとうきよのぶ)

京都生まれの小児科医。鮎を釣り、書画を好み、陶芸をたのしむ。すべて「ソレデイイノダ」が最近の口ぐせ。細石は少年のころ井伏鱒二にあたえられた釣人の号。