泥遊び 筆遊び|加藤静允


9|初期伊万里大平鉢のこと


 

染付山水文大平鉢 加藤静允 作

 大平鉢や大皿というものが最近あまり使われなくなったようで淋しいかぎりです。私が初期伊万里に狂い出した頃はこれこそ焼物と思ったものでした。栗林勇二郎さんのお宅に初めて伺った時、山水文の大平鉢を見せられそのみごとな張りと高台のしまりとに心底感動したのを憶えています。山下朔郎先生のお宅に伺った時にも傍らに堂々たる山水文の大平鉢が皿たてに飾られているのを見て、ウン、その内に僕も一点持ちたいもんやと思ったものでした。

 初期伊万里・吹墨月兎文七寸皿のすごいの二枚を持つことができ、それに傾倒してそればかり夢中になって作っていました。山下先生にカトウさんそろそろ手じるしを入れといてもらわんと困りますなあと最高の褒め言葉を頂戴した頃、大平鉢を作ってみたい意欲が突然湧いて来たのです。陶車(ロクロ)も相当自在になっていたのでしょう。

 有田のHさんに山辺田の古窯跡へつれて行ってもらい、山野を渡る風を胸一杯吸ったのを想い出します。いくつかの大平鉢の陶片を手に入れることも出来ました。

 初期伊万里大平鉢と言えば大和文華館の二点です。その格は他を圧して飛び切りの二点です。我が国産の焼物で国宝指定は(土偶を除いて)5件です。刀剣は100件を越えるかと言うのに。私はこの二点こそ国宝に指定されるべきものと以前から思っていて、数年前「陶説」にもそのことを書かせてもらいました。今世紀中には勿論指定されるのですけどね。

 さてそれで、あの二点を我が手に取って拝見させていただきたくと、日本美術工芸誌・編集長の賀藤徹氏を通して館へお願いしてもらい、ゆっくりしっかり小一時間、二点を拝見することができました。平凡社・陶器全集・第22巻・水町和三郎「初期伊万里」の巻頭カラー図版に堂々と二点が載せられています。今その巻を取り出して見ると拝見時の書き込みが踊る悪筆でいろいろと書込まれています。

 「外輪二段目の波濤文様・草花文大鉢のはゆったりと間隔大きく、山水文のは間隔こずんでいる」と。「元の染付にみる楷書波濤文が、日本に入ってきて草書になってここに描かれていることうれしく」とあります。また「山水文大平鉢の高台の削りが唐津の大皿の高台と同じで内ぐりが非常に浅い」と書き、砂つき、指あとを描きとっています。

 しかし、何といっても不思議なのはまだ初期伊万里と言う用語が一般的でなかった時期に、この二点を館に入れた人がおられたことに頭が下がります。いろんな経緯があったのでしょうが、そして当時として幾らで購入されたのかも知りませんが、ものをしっかり鑑る人がいはったんやなあと心の底から感嘆します。特に山水文の大平鉢はその後類品がいくつか世に出て来ましたが、草花文(草書風牡丹文)のそれは私はまだ見たことがありません。

 

 この後、大きなものを作るとき、元の染付大盤や梅瓶・大壺を作るとき、この時だけはキレイな助手がいてチョット手伝ってくれるとエエノニナアと思うことが何回かありました。特に釉掛けのときです、苦労して描き上げた元染付模しの大盤に釉薬をかける時、コンと縁を欠いたことが何度かありました。施釉用のコンプレッサーは持っているのですけれど。また一週間かかって絵付した鬼谷子出山図の大壺の釉掛が厚く掛かってしまい絵がキッパリと出ず沈んでしまい泣いたこともありました。大きいものは夢の中で作るのに限りますね。でも、しばらくするとまたやってみたくなるのが人間の面白いところです。

 僕の電気窯は250V、20kwで巾が64㎝と大平鉢が入るように築いてもらいました。五条坂で一般の電気窯のように奥行棚板3枚の長方型でなく、奥行2枚のやや四角型に近い窯です。焚き方により時に半分還元半分酸化の窯になったこともありました。ずい分いろいろと遊ばせてもらいました。窯のお話しだけでも5回いや10回以上になることでしょう。

[附]箱書き・蓋裏面:

 初期伊万里の大平鉢は心おどるもの 何度くり返し楽しんでも飽きることがありません でも だんだん年とって大きな土の玉と遊ぶのがしんどくなってきました 今(年ヌケ)の秋もこれ一つだけです、でも よい上がりです、なるようになったものまた楽しく

 一九九六年平成丙子大呂吉日 きよのぶかく

 

加藤静允(かとうきよのぶ)

京都生まれの小児科医。鮎を釣り、書画を好み、陶芸をたのしむ。すべて「ソレデイイノダ」が最近の口ぐせ。細石は少年のころ井伏鱒二にあたえられた釣人の号。