泥遊び 筆遊び|加藤静允


11|釉裏紅のこと


 

加藤静允 作

 銅(Cu)の女神様にはずい分と長いおつき合いをしてもらっています。怪しく美しい方なのですが、移り気で想わぬ行動をされて困らさられることが、今でも時々あるのです。

 釉薬の下に銅を入れて還元炎で焼成すると赤く発色します。酸化炎では緑、黄瀬戸の緑(タンパン)などがそれですね。中国のもの、焼物好きなら先刻ご承知のように、特に釉下線描のものは釉裏紅と呼ばれています。同じ銅紅でも李朝のものは辰砂と言われているようです。元時代末期に西方からコバルト顔料がもたらされ、完全に完成されていた白磁の釉下に絵付が可能となったのです。染付磁器の優品が急速にどんどんと焼成された頃、きっと種々な顔料で細かい文様を画くことが試されたことと想像されます。銅もコバルトと同様に文様を絵付し焼成したのでしょうが、銅の女神様のあつかいはむつかしく、また出来上がったものも、すっきり安定した染付のブルーと比べて、あまり人気がよくなかったと思われます。誰もが好む紅色をキッチリと出す、安定した技法はフリット顔料が完成されるまでは無理でした。

 私も早い時期に李朝辰砂に惚れ込んだことがあり、釉裏紅の線描をくり返し試みていたのです。銅紅は時に「フーン、コンダケキレイナ紅ガデルコトアルンカ」というものが窯から出てくることがあります。

 私は焼物の恩師・二代目土山恭仙氏の仕事場で10年近くお世話になりました。氏との出合いの縁が無ければ今日の私の焼物の存在は無かったことでしょう。今も時に想い返して如何に多くの恩恵を頂戴したことかと感謝の念を新たにしています。その10年の中ほどのこと、だいぶイロイロナモノが出来るようになった頃、釉裏紅の七寸皿5枚1組がある公募展に入選したことがありました。この頃はまだ組合の登り窯がいくつか稼働していました。そこで、寛次郎さんの裏の鐘鋳窯(かねいがま)の二の間の北入口の二タテを組合員の土山さんの名前で借りてもらうことが出来たのです。

 素人では窯詰はとても出来ません。釉掛けした品物をタイヤの空気を半分抜いたリヤカーに積んで窯場まで運ぶのです。寛次郎さんの日記にも出てくる隻眼・隻腕のカメさんにも一緒に手伝ってもらったのです。「センセノシナモン、イロイロヤサケ、コラ窯詰タイヘンヤ、窯焚キサンニ文句イワレンヨウニ詰メナアカンデ」

 今も時に想い出す釉裏紅大皿の一事、それまで電気窯ではそこそこ望みの釉裏紅が取れていたので、この時釉裏紅の大盤を作るべしで、炭酸銅、酸化錫……などなど合わせて作った顔料で必死に絵付したのです。

 河井さんの盒小屋から大皿の大きな盒鞘をお借りして、なんとか一番いい場所に入れてもらって……。窯焚きさんの仕事を何度も見に行って、焚き上がり、さめる数日を待って、窯出しの日、土山さんとカメさんに付き添われて、窯出し。大きな盒鞘の蓋を開けたら……。美しく、眞っ白な、一廻り小さくなった大皿が、そこに在ったのです。銅はすべて蒸発して飛んでいったのでした。

 コバルト顔料による染付では全く考えられません。酸化鉄の顔料ですと煮えてズルケてしまうことはあっても消えて無くなることは無いのです。

 自庭に電気窯を築いて以来50年近くになりますが、銅の女神様への想いは未だに消えることなくつづいています。ずい分仲よくなって、たいていのことは言うことをきいて下さるのですが、時に「エッ! ナンデヤ」と思うような仕打ちをうけて、「惚れてるんやけど、やっぱりつき合いにくい女神さんやなあ」とタメ息をつくことが、今でもしばしばあるのです。

※鐘鋳窯のこと。寛次郎先生は鐘渓窯(しょうけいよう)と書いておられます。組合の印は鐘鋳窯(かねいがま)です。豊臣秀頼が方広寺を建てた時の問題の梵鐘・国家安康銘文入りの鐘を鋳造した場所がここだとされていることによるのだそうです。

 

加藤静允(かとうきよのぶ)

京都生まれの小児科医。鮎を釣り、書画を好み、陶芸をたのしむ。すべて「ソレデイイノダ」が最近の口ぐせ。細石は少年のころ井伏鱒二にあたえられた釣人の号。


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