泥遊び 筆遊び|加藤静允


12|干支のうつわ作り


 

加藤静允 作

 毎年初冬になると「明春の干支を想ひてつくる」と箱書きして楽しみます。よくもまあ長年つづけて来られたものです。何時の頃からかもう定かではありませんが、夏が過ぎて秋風が立つと「アア今年モ、干支ノ焼モン作ッテミヨカナア」と言う気になるのです。

 干支の動物が生来の仲良しでよく知っている動物のときはよいのですが、あまり親しくないものの時は少し考え込んでしまいます。

 巳(み)などの歳のものは少し首を捻って作って来ました。食器ですから使用するのに抵抗なく、少し面白いものでないといけません。昔は叡山のケーブルカーの駅のおみやげ店に竹の蛇の玩具を売っていました。四明ヶ嶽山頂西下にあった蛇ヶ池の縁からだったのでしょうか。吸坂風にして、竹の蛇、チョットは面白く使えるものになったと思ったのですが。また別の歳、白磁の角皿にして、正三角型の組み合せ・鱗文様を交互釉抜きにして「コレデ巳ノ文様デス」と逃げたり、ベンゼン核の絵を描いたりしたことを想い出します。

 

 兎(卯)やニワトリ(酉)など少年時代に飼ったことのある動物達・仲良しの動物のときは気分も高揚して、大いにその動態・表情描きが楽しめます。それぞれに眼を入れるとき、その気分づくりが楽しく、五匹に一匹くらいは眠らせて描きます。陶車(ろくろ)で引く円い五寸、六寸、七寸の皿もつくりますが、毎年型物作りをそれぞれに楽しんで来ました。

 型おこしの向付は凹んだ型に押しつけて作るのと、凸の型にかぶせて作るのと二つの方法があります。古染模しの兎を造るのは凹んだ型に押しつけて作ります。型から抜き出して足をつけ形を整えます。外側に顔面・耳・脚の浮出し文様を作るためです。いずれの型も石膏で作ります。その基本的な技術は、二代目土山恭仙師匠からの直伝です。瓢型徳利の鋳込み型も三つの割型にして自分で作りました。

 毎年何種類かの型を作るので仕事場にはずい分沢山の石膏型が貯まって来ました。時には確か作ったと思う型をいくら捜しても見つからず「マタ作ッタ方ガ早イワ」と石膏を買いに走ることもあるのです。近頃は老化が進んで「捜セバ必ズ無イ」となり大いに困ることがしばしばです。ついこの間まで、本でも古美術品・陶片資料などすべて、その納まった所はしっかり記憶していて、スッと取り出せたのですが……。

 お天気のよい日に型押しして、次々と起して、足をつけ、形成して行くのは面白い仕事です。指先が土の厚さを憶えていてあまり失敗することはありません。

 来春は大好きなウサギ(卯)の年です。古染模しの凹型と少し和風の凸型の二種の型を各々三個用意して仕事にかかります。でも老耄大いに進んで泥遊びがあまり長時間続けられなくなって来ました。80歳頃までは周りの人々に「何時ノ間ニコンナヨウケ作ラハルンドスカ」とよく感嘆の声を聞かせてもらったものでした。「ウチニハ7人ノコビトガイテ『アシタノアサマデニコレシトクンヤデ!』テ言ウトクト、翌朝ニハチャントデケテルンデスワ」と言うと、たいがいの人はまた悪い冗談言うたはると笑うてくれはるのですが、妙に真面目な人に「センセオ手伝ノヒト何人カ雇ウテハルソウヤ」と言われたことがありました。

 ついこの間まではほんとうに元気でした。開業医の仕事の上に、学校医・保育園医・小児科医会や京都府医師会・国保審査の仕事などなど多い時には18ほどの役職をこなしていたのです。その頃は目覚めている間の時間はキッチリと全部使えたのです。それが今はもう1/3いや1/10くらいしか使えません。足腰の力弱くなり、すぐに疲れます。でもボーッと生きている楽しさ、いろいろ出来なくても、すべて「ソレデイイノダ」とくり返し言っては周りに笑われています。先日ある会に久々に出席した時、記念にと写真を撮られました。それが送られて来た時、自分があまりにも老爺になっているのを見て驚嘆しました。「今ノボク、他人ニハコンナ風ニ見エテルンカ!」と。毎朝髭を剃る時、鏡に映る顔見ていてもこんなに年寄りとは全く感じていないのに!

 先月高橋睦郎さんから戴いた『歌集・狂はば如何に』をくり返し味わっています。「古印章(杖つくエロス)導きに老坂上る否ひた下る」


加藤静允(かとうきよのぶ)

京都生まれの小児科医。鮎を釣り、書画を好み、陶芸をたのしむ。すべて「ソレデイイノダ」が最近の口ぐせ。細石は少年のころ井伏鱒二にあたえられた釣人の号。


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